Bitter Sweet
And More Bitter


 
 彼女が後輩を励ましたとき、それが好意であって自己犠牲だとは露ほど思っていなかった――と信じている。自己憐憫でもなかったと。
 彼女はフェアでいたいと思っているのだ。公正でありたいと。そして出来るなら勇敢でありたいと。
 そういう人間が報われる方が正しいと思いたいのだ。
 公正であること、そして出来るなら勇敢であること。
 それは嘘が無いということだ。
 彼女はそうありたいと願う。
 二つながら叶わないなら、せめて片方だけでもそうありたいと。
 だから彼女は後輩を励まし、自分の分は鞄から取り出すことなく、帰り道についた。
 
           ※
 
 春分まであと一月一週、落ちる陽はまだ早い。暮れ方と思えばすぐに夜が来る。
 仄暮れの校門に水野竜也が立っていた。寒さに腹を立ててるように、風に向かって折角の整った顔ををしかめている。
 元々陽気なほうではなかったが最近の水野はさらに苛々した顔をしてることが多いように、例えば小島有希には見える。選抜で上手く行ってないのだろうか?
 「男子、まだやってたの?」
 小島が声を掛けると水野は振り返って面倒くさそうに首を振り、「いや」と答えた。
 「じゃあ何やってんの?」
 「待ってたんだけど」
 「なんで?」
 「桜井はどうだった?」
 ああ、と小島は事情を諒解した。
 「うん、大丈夫そう。ま、バレーボールだしね」
 「バレーボールでも危ないだろ。それに倒れたとき頭打ったりしなかったか?」
 それは大丈夫、と小島は人差し指と中指を揃えて伸ばし、眉尻に当てると気持ちよい笑顔を見せた「すっとんでって墜落寸前にキャッチしたから」
 「へえ、さすが」水野は少し口元を緩めた。
 「まあそんな感じよ、キャプテン」
 水野が怪訝な顔をした。
 「キャプテンはお前か横山先輩じゃないのか?」
 「サッカー部の中の女子部だからキャプテンはあんたでしょ?」
 そんなこと思ってもいなかった水野は、不意打ちな事情に戸惑ったのか「あれ?」と手を口元に当て困ったような顔をした。
 「だから待ってたんじゃないの?」
 小島が不思議そうに聞くと、水野はさらに困惑して左手でふさいだ口から短く答えた。
 「いや」
 しばらく小島もぼんやりして黙っていたが、やがて「あ、そう」と呟いた。それを合図に二人とも歩き出した。何となく二人とも、喋らない。
 「だから、バレーボールだし」
 黙々と歩く道が徐々に重たく、小島から口を切った。
 「そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
 水野は「ああ、そうだな」と気のない返事をして、手に提げていた重そうな紙袋を右腕に抱え上げた。
 「それ、全部チョコレート?」
 小島の問いに水野は首を振った。
 「食い物じゃないものもある」
 「何それ?」
 恐る恐る小島が聞くと、水野は「手袋とか…リストバンドとか……」と小声で呟いて「女子、いま家庭科で編み物やってるのか?」と言った。
 鈍い犬を叱るように小島は怒った。
 「ばっかじゃないの?」
 水野は困ったように口を閉じて、小島は怒り続ける。
 「あのねえ、あんたにとってはどうでもいいことかもしれないけど、あげる方は一世一代の大決心なんだからね!」
 「いや……そうとも限らないんじゃ…」
 「じゃああんた自分で手袋編んでみなさいよ」
 無茶言うなよ……と水野は目をそらしてぼやいた。小島はきつく結んだ口元も険しい眼差しも崩さなかったが、心中ではそういう女子ばかりでないことも分かっていた。彼女らは『ハンサムでサッカー部キャプテンで女子に人気の水野竜也クン』に、二月の風物詩を楽しんでるのだ。
 しかし勿論それらだって、ただな訳じゃない。
 「大体その気がないなら貰わなきゃいいでしょ」
 責める小島に水野は口の中で小さく、「でも面と向かって要らないってはな…」と口籠る。
 ……どうだろうか。
 ふと小島の頭に疑問が過ぎった。
 もし私が渡してたらあいつは受け取ってくれただろうか?
 「…第一ただの義理かもしれないだろ」
 まだ小声で言い逃れを図る水野に小島は蹴りを入れたくなった。入れてもよかったけれどやめた。――水野を責められるほど自分は果断だとでも言うのだろうか。
 「そのくらい分かるでしょ。下手な言い訳はみっともないわよ」
 吹き付ける風より冷たい声が水野をひと撫でした。水野は強張る喉から「ああ」と絞り出した。
 「……分かってるよ」
 犬のしつけに成功して、小島は「なら結構」と頷いた。水野は中々複雑な顔だったけれど、ふと思い出して一言いった。
 「義理でもありがたいけどな」
 小島が呆気に取られる。目の前の男はそういうことを言うタイプでもなければ、思うタイプでもない。
 「変か?」
 「うん」
 気付いて水野が聞けば、小島は短くはっきりと答えた。不本意そうに水野は小島に横目をやると、一言呟いた。
 「美味かったけどな」
 何が? と聞きかけて小島はすぐに思い当たった。女子部から男子部員全員に義理チョコを配ったのだ。
 「ええ?なに、もう食べちゃったの?」
 「え?まずかったか?」
 「せっかく女子部員のみんなであちこちラッピングやリボンや探して回ったのに」
 「中身よりそっちに気合入れてたのか」
 やはり水野は水野だった。
 舌打ちした小島は顔をしかめる。水野はうろたえながら「いや、だから中身も美味かったし……ああ、包装紙もきれいだったな、うん」と素早く下手なフォローを口走った。小島は苦々しい顔のまま応えもしない。
 重い沈黙が冬の夕暮れに渡る。
 突然小島が立ち止まり、鞄からベージュのシンプルな包み紙に藍色のリボンを掛けた小さな箱を取り出した。
 「あげる」
 無造作に差し出され、何気に受け取ってから水野はそれが女子から男子への本日期間限定(本当は昨日だけれども)贈答品だと気が付いた。
 「貰っていいのか?」
 「何で?」
 「あんまり義理チョコには見えないんだけどな」
 小さくてシンプルだけれど、落ち着いた色の選択と丁寧な包装に、返って深い心遣いを感じさせる。
 「義理じゃないもん」
 怒りより、口惜しさや後悔を噛み締めるように、小島は呟いた。
 水野はその横顔を見て、それから手にした小さな包みに視線を落とした。
 「渡さなかったのか」
 水野の呟きに小島は不意を衝かれたように顔を上げた。
 「……誰に?」
 僅かに震える小島の声に水野は口籠ったが、「風祭」と低く、けれどはっきりと口にした。小島は無言で息を呑むと、しばらく吐けず喉を詰まらせた。
 「知ってたの?」
 擦れる声で小島が聞いた。
 「ああ」
 目線を合わせないように水野が答える。
 そう、と呟いた小島の声は、まるで少し怒っているようだった。水野も険しいような顔付きで、口を固く結んでいた。黙ったまま二人とも歩く。
 水野は歩きながら、凝っとベージュの包みを見つめていた。小島は自棄になったような気持ちで、どんどん足を飛ばす。  突然水野が手にしたチョコレートのラッピングを解き始めた。小島は驚いた顔で一瞬彼のほうを向いたけれど、何も口にしないで水野の手を見つめていた。その手は面倒くさそうに動くが決して手荒ではなく、寧ろ包装を傷めない慎重さでそれを解いていった。解いたリボンや紙を一つずつ、小島に手渡してゆき、小島も黙ってそれを受け取っては、まだ上手く処理できない気持ちを押し込めるようにたたんでゆく。
 中から白い小さな箱が出てきて、水野がそれを開くと、焦茶と白のトリュフが三つずつ、微妙に色形を変えて並んでいた。その上を指が迷うように動いて、ホワイトチョコレートを一つをつまみあげ水野は口に運んだ。
 カキ、とチョコレートのコーティングを噛み砕く音がした。
 「どうぞ」
 水野は小島に箱を差し出して勧めた。
 「あんたやっぱりデリカシー無いよね」
 小島はもう怒りもせず苦笑する。
 「いっくら敗戦処理係だからって普通、目の前で食べる?」
 「こういうのは」水野は答えた。「早く片付けた方がいいだろ」
 小島は舌打ちすると、自作のトリュフを無造作に取って同じく噛み砕いた。
 あいつだったら、とやはり考える。
 あいつだたらどういう風に食べてくれただろうか?
 「…ちっくしょう」
 小島は呟いて二つ目を口に入れた。音を立てて噛みながら少しだけ、鼻を鳴らす。
 「フラれた者同士だし」水野も二つ目を頬張りながら、憮然として言う。「それに免じて勘弁してくれ」
 「あんたが?」小島が振り向いて水野を見上げた。唇と舌がチョコレート色に染まっている。「ふられたの?」
 「今さっき」
 仏頂面のまま水野は答えたが、口元のチョコレートを構い付けない小島の表情に、つい口元が緩んだ。小さく吹き出す。
 小島は呆気に取られて水野を見ていたが、笑われて顔をそらした。そらしたまま、泣きそうに目を細める。
 「悪かったな」水野が謝った。「いきなり変なこと言って」
 「まったくだわ」
 小島は口を尖らせて応じた。赤く潤んだ両目は険しく前を睨んでいる。
 「そんなに」水野はぼんやりとため息を吐いて言った。「嫌われてるとはな」
 「あんたのことは好きだけど」ずっと怒ってるような顔のままで小島はいて。「あんたに好かれるのは嫌」
 水野は呆れたようにむっとして押し黙った。口を開きかけると小島の声に遮られた。
 「あんたに『そんな風に』好かれるのは嫌」
 それでまたも水野は口を噤まされ、黙って歩くことになった。小島は厳しく目を細めたまま、前を向いて歩く。
 何が。
 『そんな風』なのか。
 少し遅れて歩く水野は、怒ったような足取りで先を行く小島の背中を見て思った。
 でも本当は知ってる。
 「風祭は違うのか?」
 呟いてみる。小島は少しだけ振り向いて横目で睨む。それが怒りではなくて悲しいような気持ちだと言うことも、水野には分かっている。
 自分だって。
 『そんな風』じゃない部分でも彼女が好きなのだから。『そんな風』じゃないから彼女が好きなのだから。
 「だってあんたに好きって言われたら、また同じじゃない」
 小島は険しい眼差しと湿った声で言う。
 「何が?」
 「また『女』ってだけでハジかれてた頃と」
 そうだな、と水野は呟いた。「ハジいたのは俺だけど」
 小島が小さく苦笑する。「気にしてたの?」
 「ちょっとな」
 「ばっかねえ」小島の声はまだ湿っていたけれど、表情はやっと気持ちよく乾いていた。「あんたのおかげでやっと『フェアに』サッカーできるようになったのに。フェアに――対等に」
 水野はまだ難しい顔をしている。小島は笑った。それから凛々しい瞳で水野をまっすぐに見た。
 「だからあんたに好かれたくなんかないわ。あんたとは対等でいたいから。あんたとはどれだけサッカーに打ち込めるか、ライバルでいたいから」
 俺はこいつが好きなんだな、と水野は思う。
 ああ、俺はだからこいつが好きなんだ。
 そしてだからこいつは風祭が好きなんだ。決して自分を俺のような意味で好きになることはないから。
 「安心しろよ」出来るだけ、出来得るだけ心の波を顔に映さないように澄まして、水野は言った。
 「俺がお前を好きなのも――そんな意味でだから」
 水野の心情に気付いてか気付かずにか、小島は眉をひそめた。
 「それはそれでむかつくわね」
 こいつ……と水野は苦々しい顔をしたが、やっぱり吹き出した。最後に残ったチョコレートを口に頬張る。
 「どう?美味しいでしょうね?」
 「疑問じゃなくて確認かよ」
 焦茶のチョコレートは溶けずに口の中で崩れた。カカオの香りが広がった。
 「どう?」
 ん、と水野は答えた。「今の俺の気分。か?」
 気っ障ー、と小島は顔をしかめた。全くだよ、と水野は苦笑した。