銀と月夜
〜三人暮らし3〜


 
 ちっぽけな街灯の照らす下で、はーっ、と一護は夜気に息を吐いた。
 「何やってるんだい?」
 並んで夜道を歩く雨竜が聞いた。
 「いや」
 すん、すん、と鼻を啜るように鳴らして一護は答えた。
 「息が白くなんじゃねえかと思って」
 「まさか」と雨竜は呆れた。「まだ十一月じゃないか」
 「にしちゃ寒くねえか?」
 一護はポケットに手を突っ込んだまま、肘をぴったり脇にくっつけて肩をすくめた。
 「そりゃあと十日もすれば十二月だしね。朝晩は冷え込むだろうさ」
 「もう十二月か……」
 そのあと一護は小声で、さみー、と呟いた。
 「そんな薄手で出てくるから」
 シャツの上から軽いパーカーを羽織っただけの一護を見て、雨竜は言った。
 「ずりーぞお前。自分だけジャケットなんか着込んで来やがって」
 「冷えることくらい予想しとくんだね」
 二人は街灯と街灯の間に出た。妙に明るく、足元には淡い輪郭の短い影が落ちる。一護は空を見上げた。
 「うわ、すげえ明るい満月だな」
 「冬至も近いしね。月も高いさ」
 「あん? 冬の方が月が高くなんのか?」
 「冬じゃなくて冬至に近いほどね」
 へえ、初めて聞いた、と一護は言った。
 「地軸は公転面に対して23.4度傾いてるんだから、時期によって満月の高度が変わるのは当たり前だろう」
 「何で満月なんだ?」
 「太陽の反対側にあるとき月が満月になるからだろ」
 「お前頭いいな」
 「君こそよくそんなんで大学入れたね」
 「俺、文学部だし」
 雨竜の嫌味も気にせず、一護はまた月を見上げた。
 「すげえな。マジに明るい。冬至っていつだっけ?」
 「クリスマス前だよ」
 「早えなあ。もうクリスマスかよ」
 月を見上げ歩く一護の記憶に何か引っかかった。
 「あのさ」
 「なんだい?」
 「何かなかったっけ?」
 「何かって何だい?」
 「だから何かだよ」
 「質問は明確にしろ」
 「いや、だから……」
 おや、と一護は呟いた。
 「師走前に何かあったろう。十一月に」
 「勤労感謝の日かい?」
 「いや、そんなんじゃなくてよ……」
 少しだけ思い出そうとする努力をしたあと、一護はさっさと忘れることにした。
 まあいいや。
 「それよかさみーよ」
 「まだ冬に比べればましだろ」
 携帯の着信音が、夜のしじまに安っぽく鳴った。一護はジーンズのポケットから取り出して発信元を見た。
 「公衆電話――ってことは」
 受信ボタンを押し、ハイもしもしー、とぶっきらぼうに答えた。
 「あ、やっぱお前か」
 小声で雨竜が、井上さん? と聞くと一護はうなずいた。
 「おう、今ちょうどセブンイレブンの角に出るところ――っていいから! 来なくていい! 駅にいろ! 動くな! 迎えに行ってる意味ねえだろそれじゃあ……おう! そこにいろよ!」
 そう言うと一護は電話を切った。雨竜がくすくす笑いながら聞く。
 「井上さん、なんて?」
 「『その道だったらこっちからも歩いてくね』とか言いやがって。何のため迎えに来させられてんだっての」
 それからぼやくように「夜道はあぶねえだろうが」と付け足した。
 「それを言ってあげればいいのに」
 「言うか。図に乗る」
 「そんなことないと思うけどなあ」
 穏やかに笑って雨竜は言った。
 「その一言でちゃんと待ってるよ、井上さん」
 一護は憮然として何も答えなかった。
 
           ※
 
 「おっす! ご苦労様でーす」
 二人が駅に着くと、上気した頬の織姫が手を振った。
 「おい。飲んでるだろお前」
 「えへへへ。少しね。少ーし」
 「あんまり感心しないなあ」
 むっとしたように雨竜が言った。
 「未成年にアルコールを飲ませるなんてどんな合コン相手だ」
 「合コン?」
 一護が織姫に振り返った。
 「合コン行ってたのかお前?」
 「うん。どーしても来てくれって友達に言われて……タダでいいし、って」
 「いや、金の問題じゃなくてよ……」
 ぶつぶつ言う一護をよそに、いい相手でもいた? と雨竜は聞いた。
 「いやあ。二人ほどいい人はいなかったよ」
 「よく言うね」と雨竜は苦笑した。
 「ホントだって。W大文学部とT大理科V類の二人の男の人と同居してます、って言ったら男の人たちみんな引いてたもん」
 「ちょっ、お前そういう含みのある言い方はやめれ」
 「えー。だって本当だし」
 そう言うと織姫は左右両脇に一護と雨竜の腕を抱え込んだ。
 「ほら、両手に花ー!」
 「だいぶ酔ってんな」
 「だね」
 雨竜は腕をほどくと、着ていたジャケットを脱いで織姫に着せた。
 「酔い風邪をひくよ」
 織姫は、着せられたジャケットの袖の余りを振って見せた。
 「石田君、細く見えるけどやっぱり男の子だね。サイズ全然私より大きいや」
 「おーい、早く帰ろうぜ。俺も風邪ひきそうだ」
 「でも君にはジャケット貸してあげない」
 「借りねえよ」
 そう言うと、一護は先に歩き出した。
 
           ※
 
 「おう、大丈夫か井上?」
 起き出して部屋から出て来た一護は、ダイニングでお粥を啜る織姫に聞いた。
 「うん。本当はお粥まで作ってもらうほどのことはないんだけどね」
 でもおいしい、と嬉しそうに付け足す。
 「石田は?」
 「学校の図書館に行くって。その前にささっとお粥作ってくれた。胃が弱ってるかもって」
 「主夫根性が染み付いてんなあ、あいつ」
 「……本当はさ、私がやんなきゃなんだよね、こういうこと」
 ああ? と一護は眉をひそめた。
 「くだらねえ。やれる奴がやりゃいいんだよ。今時『女だから』とかねえだろ?」
 「んー……でも石田君には特にお世話になりっぱなしだし。たまにお礼とかしても全然埋め合わせにならないよね」
 「たまにお礼、ねえ……」
 「この間の誕生日も銀座のTOPSで――」
 は? と虚を衝かれた一護が声を上げた。
 「誕生日? 誰の? あ、石田か。え? 石田の誕生日? 何月何日だ? 11月6日だ、そうだ。知ってるよ俺。あれ? え?」 
 そこで一護は呆然として、それから言った。「……過ぎてる?」
 「うん。とっくに」
 「井上何かした?」
 「だから銀座のTOPSでカレーとチョコレートケーキとお茶をご馳走したんだけど。そのときも石田君、割り勘にするってずいぶん強情張って。やっとおごらせて貰ったんだから」
 「ちょっと待った。その日俺どうしてたか知ってる?」
 「黒崎君? 浅野君と飲みに行って帰ってこなかったよ」
 しまった。
 何か忘れてたのはそれだったか。一護は恐る恐る織姫に聞いてみた。
 「石田――なんか言ってた?」
 ううん、と織姫は屈託なく首を振った。
 「黒崎君のことは何にも言ってなかったよ」
 「一言も?」
 「一言も」
 一護は左目をつぶって額に手を当てた。細めた右目で指の間を透かしてみる。
 「あのよ」
 うん、と織姫が相槌を打った。
 「俺の誕生日のときあいつチョコレートケーキ焼いてくれたんだよな。それもザッハトルテ」
 「覚えてる覚えてる。私も食べたもん」
 「んで、買おうかどうしようか迷ってた平均律グラヴィアのCDも買ってきてくれたんだよな」
 「あ、私はチェンマイコットンのネクタイもらちゃった。それにレアとベイクドの二層チーズケーキ作ってくれたなあ」
 美味の記憶に恍惚となった織姫は口元が緩んだ。
 「井上、よだれよだれ」
 あうう、と織姫は滴りそうなよだれをぺろっと舐めた。
 「なんかさあ」
 ん? と織姫が視線を上げる。それを見ずに一護は続けた。
 「まずくねえ、俺?」
 「かも……。翌朝ベロンベロンに酔っ払って帰ってきちゃったしね」
 「ああ! そうだった! その上重湯と梅干茶まで作らせたんだよな」
 「それは……ひどい、かも……」
 「そうか?! やっぱり?!」と叫んで一護は頭を抱えた。
 お粥を啜る織姫の前に座って、一護はしばらく無言でいた。
 「なあ?」
 ようやく一護が口を開くと、なに? と織姫が聞いた。
 「今から何か贈るってダメかな?」
 それを聞いて織姫は勢いよく立ち上がった。
 「ありありありあり! アリーヴェデルチ!」
 織姫は自分の部屋に勢い込んで駆け込み、両手にカタログを抱えて戻ってきた。
 「いや、井上にやるわけじゃねえんだけど……」
 「いいからいいから! ほら、これとかいいよ! これとか!」
 「だから井上にやるわけじゃ……」
 織姫は無視して素早くページを繰った。
 「そうだ! これ! これにしなよ黒崎くん!」
 カタログを覗き込んで、はあ? と一護は声を上げた。
 「いや、だから石田にやる物だって言ってんだろ」
 「分かってないなあ、黒崎くん。十九歳の誕生日プレゼントには謂れがあってねえ……
 
           ※
 
 「石田――」
 「うん?」
 雨竜との共同部屋に入ってきた一護が呼び掛けると、ベッドに寄りかかって本を読んでいた雨竜は顔をあげた。
 「――さん」
 取って付けられた接尾語に、雨竜は眼を細めて訝しんだ。
 「なんだい、いったい?」
 「あのですね」
 「何だよ、早く言えよ」
 「あの、これ」
 一護は小さくラッピングされた物を雨竜に差し出した。
 「何だよ」
 受け取って「開けるけど?」と雨竜は聞いた。一護は無言でうなずいた。雨竜が丁寧にラッピングをはがすと、中からシンプルなシルバーの指輪が出て来た。雨竜はますます訝しんで一護を見上げたが、一護は眼を合わせようとしない。
 「何のつもりだ?」
 「いやあの」
 ぼそぼそと一護は呟く。
 「お誕生日おめでとう、と」
 「今日誰の誕生日だっけ?」
 「忘れててすんません。石田さんのです」
 「僕の誕生日は二週間前だったけど?」
 「だから謝ってんだろうが」
 「忘れてたんなら別にそのまま流しても良かったのに」
 二人とも黙り込んだ。雨竜は親指と人差し指でリングを挟んでじっと眺める。一護は小声で、良かあないだろ、と呟いた。
 「で、」
 雨竜が口を切った。
 「何でシルバーリングなんだい?」
 「井上が言うには……」
 「あ、やっぱり井上さん発案なんだ」
 「ああ。……んで井上が言うには、『19歳の誕生日にシルバーをプレゼントされると幸せになれる』っていう言い伝えがあるらしくってよ」
 「ああ、成る程。聞いたことあるよ」
 「マジか?!」
 「ただ相手が女の子のときの話だけどね」
 一護は言葉を無くして黙り込んだ。雨竜は指の間の指輪を転がしている。
 「どうして指輪?」
 雨竜が聞いた。
 「ん、シルバー物って言ってもお前あんまりシルバーアクセって柄じゃねえし。いや、ブレスレットをジャラジャラ言わせてるけど」
 「弧雀はアクセサリーじゃない」
 「でもあんまり光り物ギラギラさせるってイメージでもねえし。まあその、落ち着いた感じのおとなしめの指輪とかどうかな、って……」
 「井上さんが言ったんだね?」
 一護はまた言葉に詰まった。
 「い、井上の意見ばっかじゃねえぞ。一応俺も考えてだな」
 「何を?」
 「だからさ」
 少し言いにくそうに一護は続けた。
 「その、いつかお前がそれをつけて欲しいって相手ができたら……その相手に渡して欲しい、とか」
 赤くなる一護を見上げてから、雨竜はくすくす笑った。
 「言ってて恥ずかしくないかい?」
 「返せ」
 「やだよ」
 雨竜は指輪を手のひらに載せて見下ろした。
 「そっか」
 瞼を伏せて、睫毛を透かして指輪を見ながら雨竜が言った。
 「僕へのプレゼント、じゃないんだ」
 「別に嵌めたきゃ嵌めたっていいじゃねえか。その方がいざと言う時も、そのさ、相手も喜ぶんじゃねえか?」
 「そんなもんかな?」
 そう言うと雨竜は指輪を嵌めようとした。
 「ちょっと待て!」
 左手の薬指に指輪を通そうとする雨竜を、慌てて一護が止めに入る。雨竜は構わず、そのまま薬指に指輪を嵌めた。
 「あ、結構入るもんだね」
 「洒落にならねえこたやめろ!」
 「あ――抜けなくなった」
 呆然として言葉も無い一護の目の前で、冗談さ、と雨竜は指輪を外した。
 「悪い冗談はやめれ」
 安堵のため息とともに一護が言った。
 「ん? なんなら内側に『I to U』って彫ってもらうぞ」
 「もう勘弁してくれ」
 雨竜は笑った。それから、ありがとう、と言った。
 「ありがとう。大事にするよ」
 「大事にしてないでさっさとやる相手探せ」
 照れてそっぽを向く一護が言った。雨竜はそれを見てやはり微笑んで、手のひらの指輪を見た。
 「大事にするよ。君が早く手放して欲しいなら欲しいだけ――大事にする」
 一護は舌打ちして、この天邪鬼ヤロー、とつぶやいた。
 
           ※
 
 「黒崎は?」
 「ん、どこか遊びに行ったよ」
 ふーん、と言って雨竜は織姫の向かいに腰を下ろした。
 「ありがとう」
 「あれ? 指輪?」
 織姫はくすくす笑った。
 「いや、別に私が買った訳じゃないから」
 でもいいなあ、と織姫が言った。
 「私も欲しいなあ」
 「僕で良ければ今度の機会に買ってあげるけど……でも黒崎から欲しいんだよね?」
 織姫は少しはにかんで、うん、とうなずいた。
 「でも黒崎は気軽に誰彼なく女の子に指輪を渡すような奴じゃないしね」
 「そうだね」
 ちょっと悲しそうに織姫は笑った。
 「どうするの、指輪」
 「ん、大事に取っとくよ」
 「あげる相手ができるまで?」
 さあ、と雨竜は言った。
 「どうなることやら」
 そういって雨竜は、小さなため息のような苦笑をした。