風邪をひいた拍子に
〜三人暮らし5〜


 やべーな。
 意を決して一護は部屋を出た。LDKに織姫の姿は無かった。
 よし! と一護は安堵した。井上はまだ寝てるか、とにかく自分の部屋だな。
 一護は素早く、しかも足音を立てずに動いた。棚から救急箱を取り出してPL顆粒を探し、取り敢えずは3錠入手。救急箱を音も無く元の場所に戻し、今度はコップに水を……
 汲んでいたところで後ろからドアを開ける音がした。一護の心臓が凍りついた。
 「おはよう、黒崎君」
 「おう、おはよ」
 織姫の挨拶に応えながら、一護はPL錠をこっそり寝巻き代わりのジャージのポケットに滑り込ませた。
 「水、溢れてるよ」
 「え?」
 織姫の言葉に手元を見ると、蛇口から流れる水が傾いたコップからこぼれていた。おっと、と余裕を装うゆっくりとした所作で水を汲みなおし、一護はそのコップを手に部屋へ戻ろうとするとまたも織姫が声を掛けてきた。
 「どうするの、その水?」
 一護は唇を軽くかんで湿らせ、答えた。「飲むんだけど? 当然」
 「喉、渇いてるの? お茶かコーヒー淹れようか?」
 「いや、いい。水分だけ補給したい、気分」
 「上手い!」
 唐突な織姫の賞賛に、一護はつっかえながら「何、がだ?」と訊いた。
 「今のは『水分』と『気分』を掛けたんだね、さすが黒崎君!」
 頷くべきか打ち消すべきか。一護は一瞬悩んだが結局「おう……」と薄笑いを浮かべながら適当に頷いた。
 「石田君はまだ寝てるの?」
 「ああ。アイツ今日の実習、休講になったから、ゆっくりらしいぜ」
 今度はスラスラと言葉が出た。勿論あらかじめ用意していた台詞だった。
 そう、と織姫は疑いもせず流しに立ち、ヤカンに水を注いだ。その間に一護は自分と雨竜の部屋に戻った。
 
 
 目が覚めたのは、頻繁な寝返りの音と、その度に洩れる熱っぽいため息のせいだった。
 一護はベッドから体を起こすとまだカーテン越しの朝の光も暗い部屋の中で、雨竜の寝ている布団に頭を巡らせた。
 「石田?」
 返事の代わりに雨竜は咳き込んだ。
 「おい、石田?」
 「ん、何だ?」
 その声を聞いただけで一護には分かった。カサカサに乾いて掠れた声。一護はそっとベッドを抜け出すと雨竜の布団の傍まで寄って、耳元でささやいた。「風邪、か?」
 「みたいだ。あんまり近づくなよ。移るだろ」
 「どんな感じだ?」
 「そんなにひどくは無い。ちょっと倦怠くて咳が少し出て喉が痛くて頭も頭痛で痛いだけだ」
 「そんだけありゃ十分だろ」と一護は言った。て言うか、と続きは胸の内で呟いた。『頭が頭痛で痛い』とか言い方してるだけでやばいことは分かンだよ。
 ――この間、雨竜が野菜カレーを作った時も一護が「おう、このカレー、すごい美味いな」と褒めると雨竜はしかめっ面で一護をつくづく眺めたものだ。
 「仮にも文学部に籍を置いている人間が『すごい美味い』なんて言うとはね」
 「あ、何か俺、変なコト言ったか?」
 一護が何気なくそう言うと、やれやれ、と雨竜はため息をついた。
 「『すごい』は連体形だ。次に『美味い』と形容詞が来る時は『すごく』と連用形にすべきだろ。つまり正しくは『すごく美味い』だ」
 「石田……オマエ他の奴らから『ジジくさい』とか言われてねえか?」
 「それらの意見に対しては明確に反論したい」雨竜は眼鏡のフレームを人差し指と中指で押し上げた。雨竜が本気になったときの徴だ。「新語、造語、或いは既存の言葉に新たな意味が付与されることに対して僕は異を唱えない。しかし形容詞の連用形と連体形の使い分けは文法的な誤りだ。それらの混同を認める訳にはいかない」
 一護は少し呆気に取られた後、そのまま無視してカレーを食べることにした。
 「聞け、黒崎!」
 「いえ、もういいです石田さん」
 目を合わせもせず一護はカレーを食べ続けた。頼むから飯は和やかに食わせてくれ。
 「いいから聞け。今キミは『このカレーすごい美味い』と言ったが、それでは『このカレーはすごい、そして美味い』と言う意味なのか、又は『このカレーはすごく美味い』と言う意味なのか分からないじゃないか」
 「もう勘弁してください、石田さん」
 「それは僕の意見を了とした、と取っていいんだな?」
 「はいはい。わー、このカレー、『すっげー』美味いなあ」
 その挑発に雨竜は改めて口を開きかけた。しかし横で、同じようにカレーを食べながら二人のやり取りを聞いていた織姫がくすくす笑っているのに気付いて、不承不祥、口を食事だけに使うことにした――
 その石田が『頭が頭痛で痛い』だと?
 ……これ、『すごい』やべーんじゃね?
 
 
 「LDKの棚に救急箱がある。中にPL顆粒があったはずだ」
 口を開くのも難儀そうに雨竜が言った。
 「市販薬でいいのか? ちゃんと病院行って処方箋もらって……」
 一護の言葉に、大丈夫と言う様に雨竜は手を振った。
 「一応、医者の卵だ。普通の風邪ってことくらいは分かる」
 それより、と雨竜は付け加えた。「井上さんには気付かれないように。その、心配を掛けないために」
 「ああ」深刻な表情で一護も頷いた。「井上に心配を掛けちゃいけないからな。心配するからな。あくまで井上に心配させないために、な」
 お互いそれだけで意思の疎通は出来た。
 織姫に知られてはいけない。
 そして一護は外の気配をうかがいながら、LDKへと続くドアを、そっと開けたのだった。
 
 
 「どうだ?」
 薬を飲もうと布団から重たげに体を起す雨竜の背中を支えながら一護が訊いた。
 「大丈夫だからその手を離して」
 「今すぐゲラロブマイウェイ」
 「古い」
 「てゆか、んだよその言い草はよ」
 「風邪が移るだろ。それに人に触られるの、嫌いなんだ」
 「分かったからあんま興奮すんな。熱上がるだろ」
 いつもならここで一悶着有ったり無かったりするのだが、場合が場合なので一護は言われた通り、大人しく雨竜の背中に添えた手を離した。
 すると少し雨竜の体がふらついた。
 おい。一護は思わず再び手を掛けかけたが、雨竜は別に倒れもせず、薬を含んだ後コップの水で飲み込んだ。コップを一護に手渡すと、今度こそ布団に倒れこんだ。
 「おい、マジで大丈夫か?」
 「薬、飲んだ。寝る、大丈夫」
 とうとう文章から接続詞が抜け落ちた雨竜の言葉に、一護は自主休講を決めた。
 となると、と一護はこの一日のプランを立てた。まず何があっても井上には知られちゃまずい。井上を大学に送り出した後、スーパー行ってポカリのペットボトル、薬局でパブロンゴールドとユンケル買って……あ、やべ。風邪薬って何か食わせてからじゃないとやばいんじゃなかったっけ? お粥ぐらい作れるよな、俺……作り方知らねえけど。あ、レトルトが売ってるか。て言うか医者連れてかなくて大丈夫か、こいつ。
 いつもの白皙の頬を真っ赤に染め額に汗を浮かべている雨竜の寝顔を見て、一護は迷った。
 「黒崎くーん、石田くーん。朝ごはんどうするー?」
 ドアの向こうから織姫の声が聞こえた。
 やばい。ドアを開けられたら即、ばれる。一護は急いで部屋を出た。
 「ん、俺も今日、1限と2限ねえから何かテキトーにトースト焼いて食うわ」
 一護のその言葉に織姫は男子部屋のドアを見た。
 「石田君はどうしたの? いつも『黒崎! 朝食はちゃんと摂れ!』って言うのに」
 「ん? まだ寝てるっぽい」
 「どうしたのかなあ。具合でも悪いのかなあ」
 「無い無い!」慌てて一護は手を振った。「気分良さそうにスースー寝息立てて寝てたからよ」
 でも、と織姫は心配そうにまたドアを見た。「石田君、休日も早寝早起き三食きちんと摂るのになあ」
 「勉強で疲れてんだろ。たまにはそういうことも有るんじゃね?」
 そっか、と織姫も一応は納得したようだった。
 「じゃ、お互いテキトーになんか食っとこうぜ」
 
 
 じゃあ、お先にいってきます! と元気に大学へ行く織姫を見送ると、一護はすぐに部屋に戻った。
 「おい、石田。どんなんだ? 病院とか行けそうか?」
 ……しばらく横になってるよ、と布団の中からくぐもった声が聞こえた。
 「何か食いたいモンとかねえか?」
 「食欲が無い」
 そっか、と少し一護は安心した。声はともかく、喋っている内容はしっかりしていた。
 「じゃあちょっと買い物行って来っから寝てろよ」
 ああ、と布団の中から返事があった。
 よし、と一護はドアを閉め、外に出た。買うべきものを指折り数え上げた。えっと、ポカリと薬と……俺が風邪ひいたとき何食わせてもらってたっけな? 俺の場合、家が病院だから親父が……診てもらったことねえな、よく考えたら。ちょっと様子見たら「風邪風邪、後は気合で治しとけ」とかそんなんだから、世話してくれたのはいつも……
 「……あいつも学校なんだけどなあ」
 迷ったが、結局一護は携帯を取り出してメールを送った。
 
 
 1時間後、アパートのドアがノックも無く開かれて、玄関に飛び込んできた人影が叫んだ。
 「お兄ちゃん! 生きてる!?」
 一護が驚いて玄関に出てくると、妹の遊子が息を切らして立っていた。
 「あれ?」と遊子は拍子抜けした。「元気じゃない」
 「何でお前、ここにいんだよ。学校はどうした」
 「早退して来たよ! だってメールで『風邪ひいた』って。具合を訊いたら『死にそう』って」
 一護は携帯を取り出して自分が送受信したメールを見返した。
 『風邪ひいたんだけど何食っとけばいい?』
 『RE:具合は?食欲はあるの?』
 『RE:RE:食欲全然無いっぽい。さっきまで死にそうだった』
 なるほどな、と一護は納得した。主語を入れ忘れた、って言うかメールだし簡略を心掛けたんだよ。
 「ワリい。風邪ひいてんのは、石田」
 なんだ、と言い掛けて遊子は慌てて口を閉じた。いやいや、石田さんが風邪ひいても大変なことだし。
 「よし、じゃあ……」遊子は鞄の中からペンとノートを取り出すと、すらすらとペンを走らせた。そのページを破り取ると一護に渡した。「これ買ってきて」
 「おう、分かった」
 「あと石田さんが風邪ひいてるってことは、ご飯どうしてるの?」
 「えっと、俺はトースト二枚。井上は一膳一汁一菜」
 「もう」制服の上着を脱いで腕まくりをしながら遊子は怒った。「お兄ちゃんたちまでダウンしちゃうよ」
 壁に掛かっていた雨竜専用エプロンを身に付けると、遊子はキッチンに立って冷蔵庫の中を点検し始めた。「ほら、お兄ちゃんは買い物してきて」
 「あ、はい」
 一護は慌てて外に出た。買い物袋を抱えて戻ってくると、遊子がキッチンに立って料理をしていた。
 「ただいま」
 「お帰りなさい。ところで石田さんって、お酒大丈夫?」
 「えっと、井上みたく酒豪じゃねえけど、普通に飲めるかな」
 じゃあこれ持って行って、と遊子は燗をつけていた湯飲みを一護に渡した。「熱いから気をつけてね」
 「何だこれ?」
 「玉子酒」
 ああ、なるほど、と呟いて一護は湯飲みを持って部屋へ入った。
 「おい、石田?」
 一護が小声で呼び掛けると雨竜は呻くように、何? と返事した。
 「起きてたか。玉子酒、飲めるか?」
 雨竜はのっそり火照った体を起こすとその匂いに、懐かしいな、と呟いた。「キミが作ったのかい?」
 いや、と一護は首を横に振った。「遊子。うちの妹。ああ、熱いから気をつけろよ」
 「何故?」湯飲みを受け取りながら雨竜は訊いた。
 「ちょっとした手違いで来ちまった。他にもナンヤカンヤやってくれてるから、お前もう、今日は寝てろ」
 口をつけた玉子酒に雨竜はむせた。
 「おい、飲めねえなら無理すんなよ」
 「いや、大丈夫。思ったより強かったから」そう言うと雨竜は少しずつ、なめる様に飲んだ。「生姜と蜂蜜が入ってる……不覚だな。妹さんに迷惑を掛けるなんて……しょうがない、今日はお世話になろう。お礼とお詫びは後日するとして」
 「ほい。あとこれ飲んどけ」一護はペットボトルの液体をコップに注いで渡した。
 「何だい、これ?」
 「ぬるま湯に塩一つまみとアスなんとか酸を一匙溶かしたヤツだと。よく知らないけど、これをこまめに飲めってよ」
 「アスコルビン酸だろ。ビタミンCだね」
 「あとはアリナミンでも飲んで、そして風邪薬は飲むなって」
 雨竜は力なく苦笑した。「医学生の立場が無いね」
 「おら、もう寝とけ。喉が渇いたらそのペットボトルの水飲んどけよ」一護は立ち上がった。「ワリいけど用が無い限り部屋に入るなってさ」
 雨竜は体を横たえると布団を被って、うん、と言った。
 「医学的に正しい」
 
 
 夕食の準備を手早く済ますと、遊子は午後からの授業に出ると帰っていった。
 「石田さんを起こさないようにね。あと移らないようにお兄ちゃんも気をつけてよ」
 そう厳命を受けていたので、一護は部屋に戻らず食卓で読みかけの本を片付けていた。午後からの講義には間に合いそうだったが、雨竜を放って出る気にもならなかった。
 昼下がりに一度、雨竜が部屋から出てきて、黙ってバスルームへ入っていった。汗でぐっしょりの肌着を代えるとすぐにバスルームから出てきた。
 「大丈夫か?」
 一護が声を掛けると無言で雨竜は頷いたが、体は重そうだった。
 「汗、拭いてやろうか?」
 一護の言葉に雨竜は足を止め振り返り、殺意さえこもっていそうな視線で一護を睨んでから、そのまま無言で部屋に消えていった。
 何だったんだ? 一護はまだ激しい動悸を胸に覚えながら生唾を飲み込んだ。親切で言ったつもり、だったん、だけど、な……
 ちょっと落ち込んで一護は読書を続けた。
 
 
 織姫が帰って来る前には、雨竜もずいぶん調子を取り戻していた。
 一護がちょっと様子を見に部屋を覗くと、目を覚ましていたらしい雨竜は体を起こした。
 「おい、寝てろよ」
 一護は言ったが雨竜は、大丈夫、とすっきりした顔で応えた。「汗をかいて一眠りしたら熱も下がったよ。倦怠感もほとんど無い。それより……」と、立ち上がった。「晩御飯の準備をしないと井上さんが帰ってきてしまうな」
 「それなら遊子が何か作って行ったから、寝とけよ」
 それを聞いて雨竜はキッチンを窺った。コンロの上に鍋が一つと、ラップを掛けられた大皿があった。
 「カレイのおろし煮と豆腐サラダか」中を見て雨竜は苦笑した。「ちゃんとお礼しないとね。それにしても良く出来た妹さんだね」
 「おう。今すぐにでも嫁にいけるぜ」
 雨竜は笑った。「遣る気も無い兄のくせに」
 んー、と一護は元々のしかめっ面を更にしかめて少し想像してみた。「確かにろくでもないヤツ連れてきたら、相手ぶった斬っちまうな」
 「君や一心さんが言うと洒落にならないな、その台詞」
 「あ、そうだ」一護は軽く冗談を言った。「いざってなったら礼の代わりにオマエが貰ってくれよ。コンを修繕してもらって以来、遊子、オマエのこと気に入ってるし。俺とオマエなら親父一人の相手になりそうだ」
 雨竜が黙り込んだので一護は、あれ、と思った。何か言い返してくれよ石田……さん?
 「じゃあ夕ご飯は大丈夫みたいだから、一応まだ布団でゆっくりさせてもらうよ」
 「おう。自愛しろよ」
 取り敢えず沈黙は避けられたので、ほっとして一護は言った。
 
 
 「あれ?」夕食に箸をつけた織姫は、異和感に思わず声を出した。「これ、石田君が作ったの?」
 「うん」雨竜は短く答えた。
 「あれ、おっかしーなあ」織姫は首をかしげた。「いつもと味付け変えた?」
 「え? 味、おかしいかな?」なるべく目を合わせないように雨竜は話をした。
 「おかしくは無いけど、いつもの石田君の味付けじゃないような……」カレイのおろし煮を食べながら織姫は尚も不審そうだった。
 一護は無言で食べることにした。下手なことは言わない方がいい。
 電話が鳴った。
 織姫も雨竜も携帯電話を持たないので、固定の電話線が引いてある。
 「はい、もしもし」
 織姫が出た。二人とも完全に警戒を怠っていた。
 「あ、ハイ私です。お久しぶり。いえ、こちらこそです……え、黒崎君が携帯に出ない?」
 あん、誰だよ? 嘘言え――と思いながら一護は携帯を取り出した。
 電池残量が無くなって、自動的にオフモードになっていた。
 「え、石田君が? ホントに? いえ……知りませんでした……」
 自分の名前が出て、雨竜も箸を止めて織姫の方を見た。
 「はい。今食べてます。いや、そんなこと無いよ。美味しいよう。本当だって」
 そう電話の相手に言うと、織姫は明るく笑った。一護と雨竜は逆に青ざめた。
 「はい、ありがとうございました。お伝えします。じゃあ、遊子ちゃん、おやすみなさい」
 そう挨拶すると、織姫は静かに受話器を置いた。
 「黒崎君、遊子ちゃんが石田君の具合がどうか教えてって。石田君、お大事にって」
 はい……と俯いたまま二人とも口を揃えて、ささやくような声で言った。
 「……何で?」
 短い沈黙の後、織姫の低い低い声が、二人に問うた。
 「あの、井上を心配させまいと思って、思いましたんで……な、石田?」と一護は雨竜に振った。
 「うん……いや、はい……」
 「心配するよ!」織姫は声を荒げた。「していいでしょ! 何で隠すのかなあ? それより石田君、起きてちゃだめだよ!」
 「いえ、もう、大分良いので……」
 「だめだよう! 『死にそうだった』って遊子ちゃん言ってたよ! すぐ布団に……あ、黒崎君に風邪が移っちゃうか……じゃあ今晩は石田君は私のベッドで寝ること!」
 「嫌だ!……嫌です」収まった筈の頭痛がぶり返してきて雨竜はこめかみを押さえた。
 「何で? 汚くないよ? 一応清潔にしてるよ?」
 「とにかく嫌です」泣き出しそうな声で雨竜は言った。
 「大体……井上はどこで寝るつもりなんだよ……ですか?」一護は恐る恐る訊いた。
 「石田君の布団」織姫は即答した。
 「嫌です!」一護と雨竜は異口同音に叫んだ。「勘弁してください」
 「ほら、石田君、早く横になって。あ、それじゃあ明日は私がご飯作るから」
 ああ……と二人とも暗澹たる気持ちになった。とうとうそれが来たか……
 織姫は料理の腕が良い。腕は良いのだが。
 味覚の志向が斬新過ぎるんだよな、と二人の脳裏に昔、織姫に振舞ってもらったチョコレートとあんこと乳製品の盛り合わせ料理が走馬灯のように浮かんだ。糖分、脂肪、糖分、糖分……
 しかし「お前の料理なんて食えたモンじゃねえ」など二人に言えるはずも無く……
 二人の心中をよそに、織姫は張り切って言った。
 「じゃあ石田君に栄養つけてもらうために明日は羊羹のチョコレートフォンデュにするね」
 なんでだよ?
 心の中で二人は同時に突っ込んだが決して口には出来なかった。
 この共同生活の栄養管理は僕に掛かっているんだ、と雨竜は今一度思い知った。滅却師の誇りでも主夫の誇りでもいいからとにかく誇りに賭けて、二度と風邪なんかひかないぞ。
 しかしそれもまず、羊羹のチョコレートフォンデュを完食できてからの話だった。