一人でお留守番
〜三人暮らし6〜


 一護は、ただいま、と言いながらアパートの玄関を閉めた。
 お帰り、の言葉は無く部屋の中は、しん、と静まり返っていた。
 井上も石田も出てんのかな、と思いながら鞄をテーブルの上に置いた。珍しいな、二人とも出払ってるって。
 一護は食卓の椅子に座って時計を見た。午後5時45分。まあ、別に外出しててもおかしくねえ時間だけど……
 休日に二人そろっていねえってのは珍しいかもな。
 一護は自分でコーヒーでも淹れようとキッチンに立った。メモを見つけた。
 『本日遅くなります。帰らないかもしれません。冷蔵庫に肉じゃが、鶏の竜田揚げ、にんじんのサラダがあります。アジの南蛮漬けはまだ食べないでください。ご飯は自分で炊くように。』
 達筆だが左利き特有の癖のある見慣れた筆跡を見ながら、そのメモが自分宛に書かれたのか織姫宛に書かれたのか、一護は考えてみた。『ですます』で書かれているってことは井上宛か? でもアイツ、書き置き残してくときは結構、俺宛でも割と丁寧に書いていくよな……
 まあ俺と井上の二人宛だろ、と一護は深く考えず炊飯器を開けた。米櫃から3合計って内釜に放り込むと、腕まくりをして米を研いだ。一護が内釜で米を研ごうとすると、いつも雨竜は『テフロンが剥げるだろ!』と怒るのだが……まあ今居ないからいいや、と一護は横着することにした。
 炊飯器にセットしてスイッチを押すと、ヤカンに水を入れてコンロに掛けた。そこで一護は自分のミスに気付いた。ヤカンを火に掛けてから洗米すれば、その間にヤカンが沸いたのだ。
 自分の手際の悪さに舌打ちしたが、まあいっか、と一護はコンロの前に立って沸騰するのを待った。だが待つとなるとほんの数分でも長く感じてしまう。無心、と一護は自分に言い聞かせた。一々苛々するほどのことじゃねえだろ、無心で待て、無心で。無の心だ。
 やがて湯が沸くと、一護はコーヒーを淹れた。砂糖とミルクを少しずつ入れ、テーブルに持っていくと一人座って、黙って飲んだ。6時を回っていた。
 そのまま黙って一人テレビを見ていると、7時の番組が始った。
 「腹減ったな」
 独り言を呟くと、一護は冷蔵庫を覗き込んだ。肉じゃがと鳥の竜田揚げ、サラダが一品ずつ一人分、皿によそってラップを掛けてあった。
 「手際のいいこった」
 肉じゃがと鶏の竜田揚げをレンジで温めながら、炊飯器から自分の茶碗にご飯をよそった。
 「じゃあいただきますっと」
 テレビを見ながら一人で黙って夕餉を取った。食べ終えるとお茶を一杯飲み、食器を流しに持っていって洗った。
 またテーブルに戻ってぼんやりテレビを見る。チャンネルを一周させたが、大して面白い番組はやっていなかった。
 「……風呂入ろう」
 風呂から上がると9時を回っていた。ふと、固定電話の留守電のランプが点滅しているのに気付いた。風呂に入ってる間に掛かってきたらしかった。一護は再生ボタンを押した。
 『黒崎君? 井上です。今夜泊まりかもです。心配しないでください。おやすみなさい』
 おいおい……
 一護はぼやいた。今晩俺一人かよ。
 「じゃ、好きにやるか」
 一護は冷蔵庫からビールを取り出して、蓋を開けた。テレビを見つつ缶のままビールを煽った。
 「あー。風呂上がりのビールうめー!」
 もちろん、その言葉に応じてくれる声は無かった。仕方ないので、一護は黙々とビールを飲み続けた。
 今夜は文句言うヤツいねえし、もう一缶開けるか?
 と思ったが、元々一護はそんなに酒が好きなわけではない。空になった缶を『資源ゴミ』と雨竜の字で書いてあるダンボールに放ると、興味も無いテレビを見続けた。
 10時。一護は自室に戻ってベッドに寝転がった。なんとなく、何もする気になれなかった。
 暇すぎる。
 一護は携帯を取り出してディスプレイにアドレスを流した。茶渡泰虎の名前を見つけると発信ボタンを押した。4回目のコールで泰虎が出た。
 「おうチャド? 俺。いや、大した用はねえんだけど。最近どうしてる? そっか…………おい、だまってねえで何か話せよ……あ、そだ、夏梨のヤツ、最近どうしてる?…………だから黙んなっつてんだろ……いや、メーワク掛けてねーかなーとか思ってさ。って、はっきり迷惑って言うなよ。ん、俺? 普通かな。いや、マジでなんか用事があったわけじゃねえんだ。ああ、またな」
 電話が切れたあと、今度は浅野啓吾の名前を押した。
 「よう、どーしてるよ? いや、昼間会ったばっかだけどさ。どーしてっかなーって思っただけだろ? ナニ気色わりいコト言ってんだテメエ……ハハッ……ああ、そんだけ。じゃな」
 次は小島水色の名前を押した。
 「よう、水色? 俺。昼間は……あ、わりい、じゃあな」
 一護は慌てて電話を切った。「相変わらずお盛んなこって……」ディスプレイの水色の名前を見ながら呟いた。
 携帯の時計は『22:23』。まだこんな時間かよ……一護は携帯を握ったまま寝返りを打った。
 暇だな。いや、暇って言うか……何だコレ? しん、とした部屋で一護は訳の分からない落ち着かなさを感じた。そういや、この部屋に来てから俺一人で夜過ごすの初めてなんじゃね?
 ……いや、まて、と一護は思い直した。
 つーかコレ、もしかして人生初の『一人でお留守番』か?
 気付いてから一護は頭を抱えた。なんてこった、大の男がハタチになるまで一人で一晩過ごしたことも無かったとは……
 そういや石田も井上も、ココに越してくる前は一人暮らししてたんだよな。井上んトコにはたまに、たつきが遊びに行ってたみてーだけど……
 そうだ、と一護は握った携帯をもう一度開いて、有沢竜貴の名前を探した。たつきに訊けば井上だけでもどこに行ってんのか分かんじゃねーか?
 竜貴の名前に発信しかけて一護は我に返り携帯を握った裏拳で壁を叩いた。
 ナニやってんだ俺!?
 いーだろ、いーだろ!? あいつらがどこに行ってようがあいつらの自由だろ!? 何で詮索しようとしてんだよ俺は!?
 自己嫌悪のあまり一護はベッドに伸びた。
 参ったなあ……どこの寂しがり屋さんだよ俺は。啓吾じゃねえんだからさ……
 ふと、一護はあることに気付いた。
 ベッドから起き上がるとLDKに行き、留守電の再生ボタンを押した。
 『黒崎君? 井上です。今夜泊まりかもです。心配しないでください。おやすみなさい』
 一護は自分の記憶違いではないことを確かめた。
 ……石田の名前が出てねえ。
 それから一護は冷蔵庫を開けた。肉じゃがも竜田揚げもサラダも、皿によそって準備してあったのは一人分、自分の分だけだった。
 つーコトぁ……何だ? 一護は雨竜が書き残したメモを手にとって考えた。もしかして石田と井上……一緒なのか?
 そう考えると、一護の中で辻褄が合った。
 ちょっと待て。一護はメモを片手に自室へ戻った。ちょっと待て、二人でお泊りですか?
 ベッドに身を投げ出して、メモを何度も読み直した。
 そうだ。
 何度目か読み返して一護は確信した。このメモ、俺と井上宛じゃねえ、俺一人宛に書かれてんだ。
 石田からの、俺宛の書き置き。
 そう気付くと、
 『帰らないかもしれません』
 の一文が一護の胸に不吉に響いた。
 帰らないって……今晩だけだよな、ちゃんとアジの南蛮漬け食べに帰ってくるよな、石田。あのアジの南蛮漬け、俺への置き土産じゃないよな、石田……
 不覚にも泣きそうになって、一護は鼻を啜った。
 
 
 「どうしたの、石田君?」
 部屋の襖を開けるとそこで止まった雨竜に、織姫は声を掛けた。答えきれない雨竜の背後から、織姫は部屋を覗きこんだ。
 「あれ? 私たち何か勘違いされちゃってるね」
 部屋には二組の布団がぴったり並べて敷いてあった。
 「ま、いいや」
 「いいの!?」
 無邪気に言った織姫に雨竜は切り返したが、織姫は気にせず浴衣姿のまま布団に寝転んだ。雨竜は少し躊躇ったがあとに続いて部屋に入り、自分の布団を30cm、織姫のから引き離した。
 「そんなに怯えなくっても石田君を襲ったりしないよ?」
 傷ついたように織姫は言ったが、雨竜は「世間体の問題です」と厳かに言って布団の端に正座した。その浴衣姿を見て、織姫が訊いた。
 「石田君って細いよねえ。体重どのくらい?」
 「えっと、55キロだけど」
 「細ーい。私なんて……」言い掛けて織姫は口を噤んだ。
 「いや、別に言わなくていいから」
 雨竜はなだめたが、織姫は頭の中でBMI数値を必死に計算していた。
 「石田君、計算機持たない?」
 「持ってるわけ無いよ。それに井上さん、別に太ってないし」
 織姫はじっと雨竜を見据えると、不貞腐れたように布団に入った。「でもどうせ裏では石田君も私のこと『うしちち』とか思ってるんだ」
 「思ってません」
 苦笑しながら雨竜も布団の端に体を潜らせた。
 「じゃあ電気消すね?」と織姫が訊いた。
 「あ、はい。どうぞ」雨竜は少し戸惑いながら眼鏡を外し、枕元に置いた。
 織姫が手を伸ばして紐を引っ張った。明りが落ちた。
 急に辺りが静まり返ったような錯覚に、二人は居心地の悪さを感じた。
 「黒崎君、ちゃんとご飯食べたかなあ?」暗闇と沈黙を誤魔化すように、織姫が言った。
 「おかずは作って置いてきたし、メモも書いて来たから大丈夫だよ」
 「メモに気付かなかったり……」
 「人間、一食抜いたくらいで餓死しないから。それより、漬けたばっかりの南蛮漬けに手を出してないかの方が心配だな」
 黒崎君より南蛮漬けのほうが心配なんだ……と言った織姫の声はすでに眠たそうだった。その様子に雨竜は安心して、目を閉じた。
 何分経っただろうか。
 不意に暗闇の中、織姫が突然身を起こした気配に、雨竜は眠りかけた目を開けた。トイレだろうか、と思い雨竜は何も言わなかったが。
 「石田君?」
 起きているか確かめるような、かすかな声がした。
 「なに?」
 「起こしちゃった?」
 「いや、まだ起きてたけど……」
 雨竜からは暗闇と近視でシルエットしか見えない織姫が、振り返った。
 「折角だし、する?」
 何を? と野暮なことを雨竜は訊かなかったが諒ともしなかった。「遠慮するよ」
 織姫のシルエットが布団に倒れこんだ。「だよね」
 またしばらく沈黙が続いたが、もう、お互い目を覚ましている事は分かっていた。
 「黒崎君のこと好き?」
 隣から聞こえた言葉に雨竜は、うん、と答えた。
 「どのくらい?」
 「井上さんと同じくらい」
 「それは無いなあ」と織姫の声がした。「だって私、途方も無く黒崎君のコト好きだもん」
 「じゃあ僕もそれで」
 「真似は無しだよう」
 じゃあ……と雨竜はしばらく考えて言った。「たまにうっかり殺しそうになるくらい、好き」
 くすっと織姫が笑いをこぼした。それから訊いた。「私のこと、軽蔑した?」
 「いいや」
 雨竜の答えを聞いて、織姫は、良かった、とため息をついた。「そっち行ってもいいかな?」
 「え? 駄目だよ」
 「大丈夫、襲わないから」そう言うと織姫は雨竜の布団に入ってきた。
 雨竜は背中を向けて布団の端に寄った。織姫は雨竜の浴衣の余りを、強く握った。
 「ごめん、石田君。でもちょっとだけ」
 暗闇の中、雨竜の背中から聞こえてくる声は、次第につっかえ始めた。
 「ごめん……でも、たまに……いつまでこんな宛の無い片想いが続くのかなって……気が遠くなるよ」
 それだけ言ってしまうと声はむせび泣きに変わって、浴衣を掴む手はしがみつく様だった。
 雨竜はそのまま振り返りもせず声も掛けなかったが、やがてふっと浴衣を握っていた手が力なく離れた。
 雨竜は恐る恐る身を起こして、声を掛けた。「井上さん?」
 答えは無かった。織姫は泣き疲れて眠り込んでいた。
 雨竜は布団を掛けなおしてやると、自分は織姫の布団で寝ることにした。
 
 
 玄関のチャイムが鳴った。一護は駆け付けるとドアを開け放った。
 「よう。お兄さん学生さん? 新聞どこ取ってんの? 今ウチの新聞とってくれたら……」
 「恐怖新聞だよ」
 睨み殺せそうな視線で新聞勧誘員を黙らせると、一護はドアを閉めた。
 人生初の『一人でお留守番』は心細く、寂しかった。それ以上に怖かった。お陰で一護はよく眠れずに一晩過ごす羽目になった。
 「ちくしょう。朝からビール飲んでやる。なんつっても誰も叱るヤツいねえしな!」
 自棄になって冷蔵庫から缶ビールを取り出し、音を立てて蓋を開けたところでまた玄関から音がした。
 ――新聞ならこっちから恐怖新聞送りつけるぞオラァ!
 と言ってやるつもりで玄関まで出ると、普通に織姫と雨竜がいた。
 「ただいま。おはよう黒崎君」
 織姫に普通に挨拶され一護は言葉に詰まったが、お帰り、と普通に言った。
 「黒崎、お土産」雨竜が煎餅を一袋、一護に渡した。
 「『××温泉健康ランドせんべえ』……え? 何コレ?」
 「見ての通りだろう。××温泉健康ランドに行ったら座敷に置いてあったからお土産に貰ってきた」
 「ちょっと待て!」一護は平然と佇む雨竜と織姫に質した。「話が見えねえんだけど。何で二人で温泉とか行ってんの?」
 「えっと」織姫が説明した。「昨日の朝に週末の買出しに行ったら、商店街のシールが台紙いっぱいになって」
 「そしたら引き換えに福引券貰って、それで2等賞『××温泉健康ランドの2名1泊券』を当てたんだが」とあとを雨竜が続けた。
 「ちょっと待て。だから待て」
 「うん」
 混乱する一護を前に、二人は黙って待った。
 「××温泉健康ランドってさ」ようやく一護が口を開いた。「ここから歩いて30分くらいのあそこか?」
 「よく知ってるな。行ったことあるのか黒崎?」
 「ねーけど……ねーけど!……なんで歩いて30分のトコに一泊してくんだよ? 日帰りできるじゃねえか!」
 雨竜と織姫は顔を見合わせた。
 「夕食と朝食の食券付だったから」と二人は食券の半券を二枚ずつ見せた。「使わないともったいないだろ?」と雨竜が付け足した。
 「どこまで貧乏性なんだよ、お前ら! て言うか、そんな近場なら教えろよ。そしたら俺も行ったのに!」
 「だって電話かけたら黒崎君、出なかったんだもん」
 「携帯に掛けようぜ、井上!」
 「バカを言うな、黒崎。携帯は電話代高いんだぞ」
 「どこまで貧乏性なんだよ、お前ら……」
 「それより黒崎、アジの南蛮漬けには手を出してないだろうな?」
 「あー。やっぱり家が一番だよねえ。って何これ?」織姫がビールの缶を持ち上げてみて、開いた口を嗅いだ。「え、黒崎君、朝からビール飲むつもりだったの?」
 雨竜と織姫に視線で詰られて、一護は
 「誰のせいだよ!?」
 と言いたかったが、色々と墓穴を掘りそうなので言わず、雨竜からの嫌味と皮肉と織姫からの叱責を黙って受けることにした。