褪色 一護・雨竜

 不意を衝かれた。
 何の予兆も無く廊下の曲がり角からオレンジの頭髪が現れる。
 いつものように無愛想なしかめっ面で歩いてくるが、雨竜を認めると少しだけ眉を開き「よう」と短く声を掛けてきた。
 雨竜は視線を一瞬だけそちらへ向けると、細い指で神経質そうに眼鏡を押さえ何も応えない。一護も返事を期待してはいなかったので、そのまま二人は擦れ違った。
 それだけ。
 あの時以来、二人で会話らしい会話は交わしていない。
 背後を一護が遠ざかるが、それは足音でしか分からなかった。
 不意を衝かれた。
 動悸が少しだけ乱れる。
 何の予兆も無かった。あの凶悪な霊力が消えて無くなってしまっていた。近くに来るだけで雨竜の皮膚を痺らせるようだったあの横暴な霊圧も、目の前にいなくても雨竜の意識に割り込んできていた鬱陶しい霊波も、全部が消えていた。
 廊下を曲がりしなに横目で、遠ざかる後姿を少しだけ窺う。
 あの紅かった、血のようだった霊絡は、普通の人間と同じ真っ白に。
 雨竜はそのまま教室へ歩きつつ薄く目を閉じ気配を探るが、空を掴むように何も捉えられない。
 消えたのだ。
 あの日を限りに、いつも雨竜の中で鳴り響いていた、黒崎一護というノイズが。
 
 
 クロサキスゲー!
 校庭から聞こえてきた歓声に開け放してある窓の外へ視線を向けた。
 新年度が始まって間もない。春の終りに向けて、校庭や歩道の脇に植わった花木が鮮明な色をはじかせていた。夏のような濃く焼き付く緑ではなく、萌えたばかりの瑞々しく淡い色たち。
 グラウンドで、一護のクラスが体育の授業に軟式野球をしているのが見えた。ホームランを打ったらしい。一護がベースをゆっくり回っていた。ホームに帰ってくると、同じチームに振り分けられた級友たちからきついハイタッチを浴びせられた。うぜーよお前ら、と言いながらも一護も笑顔でハイタッチに応じていた。
 何やってんだか。
 雨竜は苦笑した。
 君が本気出したらプロの球だって打っちゃうだろ。
 「おい、石田。どこ見てる」
 教師の声に雨竜は我に返った。
 「次の段落から訳してみろ」
 雨竜は英語の教科書を持って黙って立ち上がると、ノートを見ることなく和訳を始めた。
 ――しばらくして道に何か落ちる音がしたのでジョン・グレイディが見るとブレヴィンズのブーツが転がっていた。振り返るとブレヴィンズは帽子のつばの下からじっと前方を見据えているのでそのまま馬を進めた。馬たちは……
 「もういい」
 今年、空座第一に赴任してきたばかりの英語教師は、淀みなく和訳を続ける雨竜をそう遮ると舌打ちした。教室にささめき笑いが広がる。クラスメイトたちは雨竜が一年の時から学年首席を保ち続けているを知っている。
 立った時と同じように黙って静かに座った雨竜は再び窓の外へ視線を向けた。一護がショートを守っているのが見えた。
 適当に打たしてけよ。
 一護がピッチャーに声を掛ける。
 楽しんでるじゃないか。
 それを見て雨竜は声を立てず微笑んだ。それから教科書とノートに俯き、外からの声に耳を澄ませる。窓の脇に引かれた白いカーテンを少し揺らしながら、暖かい微風が教室に流れた。
 金属音が響き、それに続いてまた歓声が起こる。
 クロサキ、オマエモウ、ヤキュウブハイレヨ!
 笑い声が続く。守ってもファインプレイを見せたらしい。
 雨竜の左手のシャープペンシルの先が、コツコツとノートを叩く。
 いい事だな。
 そう思って雨竜は微笑もうとしたが、何故かそうする気になれなかった。窓越しの陽気に似ている輪郭のぼやけた生温い物憂さが、雨竜の胸に滲んで広がった。
 いい事だろ。
 雨竜は胸の裡で呟いて、額が着きそうに机へ俯いた。伸ばし始めた髪が流れて揺れる。ノートに小さな点を打つシャープペンシルの動きが止まらなかった。
 いい事じゃないか。もうあいつは普通に生きていいんだ。普通に高校生をやって、普通に日常を楽しんで……ようやくあんな生き死を賭けた危険とは無縁に生きていけるようになったんだ。だから……
 小さい音を立ててシャープペンシルの芯の先が折れて、ノートを黒く汚した。
 木の芽時だな。まったく。
 消しゴムで黒鉛の汚れを消しながら雨竜は自嘲した。静かな教室には、教師の板書するチョークの音だけが聞こえていた。
 
 
 また不意を衝かれた。
 「お、石田じゃねえか」
 放課後、校門のところで一護と出くわした。
 「なんだそのツラ?」
 思わず驚いてしまったところを見られたらしい。雨竜は、何でも、と眼鏡を押さえる振りで表情を隠した。
 まだ慣れない。この男がそばにいるのに何の霊圧も感じないのが。視認しないと本当にそこにいるのかどうかさえ不確かだ。
 「真っ直ぐ帰んのか?」
 一護の問いに、聞いてどうする? と雨竜は顔を背けた。一護は何の含みも他意も無いように雨竜を誘った。
 「途中まで一緒行こうぜ」
 雨竜はあからさまに嫌な顔で一護を見た。
 何で君と一緒に下校しなきゃいけない。
 「あ、何か不満かよ? いいだろ、たまにゃ。啓吾は水色に女紹介してもらうって一緒に帰っちまったし、チャドはバイトだし」
 僕は代打か。
 おっと、言い方悪かったな、と一護は詫びた。「つーかさ、おまえと最近話してねえし。ほら、帰ろうぜ」
 別に話すことも話す必要も無いだろ、と雨竜は一人で歩き出した。
 「なんだ? よく考えたらルキアが帰ってったあの日以来じゃねえか、おまえとまともに話すの」
 だから話す必要性が無いって言ってるだろ。むしろ……
 「むしろ、何だよ?」
 むしろお互い係わらない方がいいよ、と言う言葉は口にしなかった。代わりに訊いた。
 あれから朽木さんはこっちに来てないのかい?
 んん、と一護は考えを巡らせた。「さあな。来てても俺には分かりようがねえからな」
 雨竜はしばらく黙ってから、そうだね、とポツリと呟いた。
 一護は、ああ、そうだな、と誰宛にでもなく言ってから、暖かい春の空気を吸い込んだ。「もう春だな」
 そんなこと、日本中が知ってるよ。
 「もうすぐ一年経つな」
 いつから数えて一年なのか、雨竜は敢えて訊かなかった。訊かなくても分かっていた。
 「代打って言やよ、今日体育でヤキューやってさ」雨竜の様子を意に介さず一護は横を歩きながら喋った。「そんでちょっくら活躍したんだけどな、したら野球部のヤツに助っ人頼まれてよ。コレ、いいバイトになりそうじゃねえか、とかさ」
 大人気無いな、学校の授業で本気出すなんて。
 「死ぬ思いして身についたチカラだぜ? 活用しなきゃ損だろ」
 最初雨竜は皮肉に嘲笑して見せたが、目を逸らすと表情を和らげた。
 楽しんでるようだな。
 ん? と、一護は少し考えたが、ああ、と答えた。「上々じゃねえの。もう変なモンも見えねえし、おっかねえ思いもしないでいい。何もなくて平和な毎日だよ」
 そこまで言って一護は気付き、詫びた。「悪い」
 ……何をいきなり。何故謝る?
 「いや、ほら。あのイモ山さんだっけ? あんま役に立ってねえんだろ? お前、しょっちゅう抜け出してるしよ」
 それがどうかしたか?
 なんつーかよ、と前置きして一護は続けた。「お前だけヤベー役請け負ってんのに、俺は平穏無事にさ、毎日安穏と生活してて悪いなって思ってよ」
 別にもう、そんな危険な虚はいないから。
 そっか、と一護は呟くと、しばらく躊躇ってから言った。「怪我とか、してねえか?」
 心配する顔を見られたくないのか、一護は顔を逸らした。雨竜は小さく笑って、答えた。
 昔、誰かに斬魄刀を腹部に突き立てられたことがあるけど、あれほどひどい怪我はしてないね。
 テメエ……と一護は苦々しくもらした。「んだよ、ヒトが心配してやってんのによ。いや、あれは悪かったけどよ! 悪かったよ!……でもヒトが心配して言ってんのに、何だよその言い草?」
 雨竜は迷惑そうに一護に応えた。何で君が僕の心配なんかしなきゃいけない?
 「ダチだからだろ?」
 平気な顔でそう言った一護に、雨竜は二の句を継げなかった。
 ……誰が『ダチ』だって?
 眼鏡を押さえながら、ようやく雨竜は声に出した。
 あん? と一護は意外そうに雨竜を見て、口を尖らせた。「何だ、ダチじゃねえってか。冷てえヤツ」
 決まってるだろ。
 「じゃあ、俺とお前は何なんだよ?」
 何度も言ってるだろ……とまで言って、いつも言っていたセリフを口にする前に雨竜は気付いた。
 ああ、そうか。
 そうだ。
 僕は死神を憎む。けれど今、隣にいるのは――もう死神じゃない、普通の高校生だ。
 「どうした? 石田?」
 そうか。
 もう僕はこいつを憎む理由も必要も無いのか。もう、憎んでいい相手じゃ無いのか。
 今の黒崎一護はただの、元クラスメイト、だ。それ以上、何も無い……
 「おい、石田? マジでどうした?」
 心配そうにそう言って、一護は雨竜の肩に手を置いた。
 その感触に、と言うより感触の無さに、雨竜は狼狽した。
 何も感じない。霊圧も何も。
 不意に自分の肩に手を置いている人間が、目の前から消えたような錯覚を覚えた。
 感じるのはただ、その手の平の重さと温度だけしか。
 本当にお前は黒崎か? 黒崎一護なのか?
 目の前にいるのに、雨竜は一護が見えなくなったような錯覚に襲われた。
 本当に君、そこにいるのかい?
 確かめるように手を伸ばしかけて、一護に触れる前に雨竜は自分の所作に気付いた。気付くと急におかしくなって、思わず小さく笑いをこぼした。
 「おいおい」一護は本気で心配し始めた。「マジでどうした、お前?」
 何でもないよ。
 雨竜は笑いの名残を残した顔でそう言い、肩に置かれた手を軽く払った。
 何でもないんだ。
 そう言われても一護はまだ納得しかねたが、君の家あっちだろ、と雨竜に言われると、戸惑いを残しながらも自分の家へと足を向けた。
 「じゃあ、またな。石田」
 ああ、さよなら。
 一護は雨竜の言葉を背に受けて手を振ったが、振り返りはしなかった。
 雨竜も自分の家路を歩こうと一歩踏み出し、そこで立ち止まった。遠ざかる一護の背を眺めた。
 霊絡は、白い。
 そう、『さよなら』だ。
 きっと良かったんだろう……良かったんだ、こういう終りで。
 一護の手が置かれていた左肩を触るが、何の霊圧も感じられなかった。感じるのは、手の平の重さの記憶と、少しだけ残った温かな感触だけ。
 それでいい。
 雨竜は歩みを再開する。一護の後姿はもう見えなかった。
 もう、こちら側に来るなよ。
 何故か空虚になったがその分軽くなった心を抱えて歩いた。突然できた胸の空洞を、温かな風が吹き抜けて行く。
 そして平和に生きろ、黒崎。武器によって生きることなく、刃も無く盾も要らない世界で、大人になり、働き、結婚でもして子を成し家庭を営み、傷を負ってではなく寿命で死ぬまで生を全うしろ――僕の知らないところで。
 さよなら、だ。黒崎一護。
 陽光眩しい春の景色が不意に彩度を失い始めてざらついていくのを、不思議な気持ちで雨竜は眺め歩いた。
 さよなら、お人好しの死神代行。
 


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