リハビリハニーパイ
L to R ver.


 トレイの上に乗せると、中を覗き込んで天火がむらなく当たるように位置を少し動かした。
 よし、と呟いてオーブンのドアハンドルを押し上げると、少し錆びたクロームが軋む。ドアを押し上げると、ガチャン、と響いた。タイマーをねじる。
 ジリジリジリ……とタイマーの音がし、中が火で仄明るくなり始めた。
 「おう、シャワーごちそうさま」
 冷たい雨を熱い湯で流した一護が、乾いたタオルを肩に掛けて浴室から出てきた。湿った制服はハンガーに掛かっている。
 「何やってんだー石田ー?」
 腰をかがめ、何か覗きこんでいる雨竜の顔が、真っ赤な明りに照らされている。
 窓の外の黒い雲と篠つく雨に薄暗い台所で、そこだけが暖かそうに浮かび上っていた。振り返えると雨竜の顔は影に隠れた。左耳だけが赤く照らされる。
 「だから何やってんだよ」
 一護がもう一度問い掛けたが、雨竜は無視してまたオーブンの中を覗いて、それから流しの方に振り返ると後片付けを始めた。
 「こらこら無視すんなメガネ!」
 「君には教えたくないだけ」
 振り向きもせず雨竜は答えた。
 「なんだケチ! いいよ勝手に見ますよ!」
 そう言うと一護はオーブンの中を覗き込む。
 「何だこれ? パイか?」
 「君には秘密」
 雨竜はリンゴの芯とレモンのヘタと、生地の切れ端を流しの三角コーナーに捨てた。
 「何だよ、これ何パイ?」
 「だから君には秘密」
 最後に秘蔵の蜂蜜の壜をしまおうとして、雨竜はちょっと手を止めた。中の金色に蕩ける蜜を見つめる。
 蓋を取って匙を突っ込んだ。掬い取ると口に運んで舐め取る。
 「あ。なにイイモン舐めてんだよ、俺にも寄越せよ」
 見咎めた一護が物欲しげに雨竜に頼んだ。
 「嫌だね」
 「ケチケチすんなよ、このケチ」
 一護の物言いに、雨竜は、冗談、と冷たく言葉を返した。
 「この『煉獄ヶ原峡谷養蜂場産蜂蜜』が幾らすると思ってるんだい。お釣りの小銭を少しずつ貯めて、貯めて、貯めて貯めて貯めてようやく買ったのに」
 眉をひそめて答えながら、今度は直に人差し指を壜に突っ込んだ。掬い取って、粘りつく蜜をしたたらせ口に運んで舐め取ろうと――
 したところでその手を一護に掴まれた。
 「何……」
 するんだい、と言い掛けた雨竜の指に一護は噛み付いた。
 「ひゃあっ!」
 「『ひはあ!』っへほはへ……」
 思わず叫んだ雨竜の人差し指を銜えたまま、一護が意地悪く笑った。しかし雨竜はそれにも構えないほど取り乱す。
 「うわー!うわー!何やってるんだ君はあー!」
 騒ぐ雨竜をほっといて、一護は雨竜の人差し指に絡んだ貴重品の蜂蜜を、余すところ無く舐めた。
 「うわ、マジ美味えな、この蜂蜜」
 「当たり前だ! 悩んで悩んだ末に清水の舞台から飛び降りるつもりで買った逸品だぞ! って言うかその前に早く放せよ!」
 んだよ、ケチ。
 そう呟くと一護は最後に、雨竜の手のひらにまで垂れた蜜を、舐め取った。
 「ん。ごっそさん」
 唇についた蜜をぺろっと舐めて一護が言った。雨竜は唇を固く結ぶと、表情を押し殺した眼差しで凝っと一護に含まれた人差し指を眺めていた。やがて蛇口をひねって水を流し、手を洗う。
 「あ! 何だ失礼な奴だな。手前え」
 雨竜が殺菌成分配合のポンプ式ハンドソープで手を入念に洗い始めると、一護が抗議した。
 「あたりまえだろ」
 冷ややかに雨竜が答える。
 一護は舌打ちしてオーブンの中を覗き込んだ。中は200度の熱だが、暗い台所ではその明りは熱よりも暖かみを感じさせる。
 「なあ」
 赤い明りに照らされた顔で一護が言った。
 「これ食っていいんだろ?」
 「だめ」
 まな板を拭きながら雨竜は答えた。一護は不機嫌な顔で振り返る。
 「なんか今日お前、えらいケチケチしてんな」
 「君が厚かましいだけだよ」
 そう言うと雨竜も一護の隣に立って、オーブンの中の焼け具合を確かめた。パイの表面に乗せた林檎とレモンの蜜漬けが、ふつふつと泡立ちながら煮立っている。型のふちにのぞいたパイ生地は、じっくりと焼き跡をつきながら膨らんできた。
 「……食わせろよ」
 焼き上がる様子を見て、一護がつばを飲み込んだ。
 「だめ」
 「お前本っ当今日ケチだな! いや、今日に限らずお前はケチだ!」
 「何で僕が君に寛容になってやらなきゃいけない?」
 食い物を前に逆上した一護にも雨竜は取り合わなかった。
 「なんだ、これお前一人で食う気か? これを独り占めする気か?!」
 「いつもより一時間早く起きて生地を仕込んでおいたんだぞ。何だってそう君は意地汚いかな」
 「うるせえな、ケチ!」
 「これで君、今日十回も僕に『ケチ』って言ったぞ」
 「いちいち数えてんなケーチ、ケーチ。メガネケチ!」
 くっ、と雨竜は歯噛みしたが、直接一護に向かって反駁しなかった。一護は更に嫌味を続ける。
 「大体こんな凝ったもん作っといて一人で食って虚しくねえか? 友達いねえんだろ、お前?」
 ああ、ちくしょう! とついに雨竜も一護にまともに向き合ってしまった。
 「違うよ! これは明日井上さんと朽木さんに食べてもらうんだよ!」
 呆気に取られて、一護はぼんやり口を開けて黙っていた。しかしすぐに勢い込む。
 「なんだと! なんだそりゃ?! 何であいつらに食わせて俺に食わせねえ! って言うかあのアマ一言もそんなこと俺に言ってねえぞ!」
 「なんだい、君と朽木さん、そういう仲なのかい? フフフフ……」
 ようやくやり返せた雨竜が嘲笑った。今度は一護が歯噛みした。
 チン! とオーブンが鳴った。
 
 
 「おい、コーヒーもな」
 「厚かましいにもほどがあるぞ、君」
 「もう淹れてんじゃねえか」
 うなるコーヒーメーカーに濾された黒い液体が、ガラスポットに滴っている。雨竜はしょうがなさそうにポットを取ると、仏頂面でカップに二つコーヒーを注いだ。テーブルに着いた一護がニヤニヤ笑いながら言う。
 「勿体振んなよ」
 「勿体振ってない! 自分で飲もうと思ってただけだ!」
 「あ、ミルクと砂糖な」
 「自分で取ってくれよ。どうせもう知ってるんだろ、他人の家なのに」
 はいよ、と一護は軽く席を立つと迷いもせず戸棚の左から二番目の引き出しを開けた。中に並んだ銀メッキの匙を咥えると、クリームとペットシュガーを持って戻ってくる。
 分かっていたことでも何となくため息をつきたくなることだってある。雨竜は一護の勝手知ったる様を見て目を細めた。
 「……家に物取りが入ったら真っ先に君が疑われるぞ」
 雨竜の物言いに一護は首と手を振った。
 「大丈夫大丈夫、こんな食いもんと縫いもんばっかの貧乏宅に押し入る奴いねえって」
 くっ、と歯の間からもらした雨竜は、この……と声を押し殺した。
 「それより早く食わせてくれよ」
 「よくもそこまで図々しくなれるもんだな」
 言いつつ雨竜はオーブンから熱いパイを、手製のミトンで取り出してテーブルの鍋敷きの上に置いた。パイ生地の香ばしいにおいと、蜂蜜の甘いにおいがダイニングに広がる。
 それから十分にコンロで焙った包丁で7インチホールのクォーターを切り取る。パイを砕かないように慎重に包丁を入れる。
 サク、と音がしてからパリパリとパイ生地の薄い層を割ってゆく軽やかな音がする。知らず一護も凝っと黙って見守る。
 「はい」
 それを更に二つに切って、雨竜は片方を一護の前に差し出した。焦げ目のきれいについたパイ生地の上に、林檎とレモンを漬けた琥珀色の蜂蜜がまだ熱さで蕩けている。
 「お、おう」
 つい目の前の焼きたてのパイに、一護は言葉少なくなっていた。三角に切られたパイの底辺を素手でつかむと、先を口に運ぶ。
 「あつ……」
 口の中で幾層もの薄いパイ生地が、噛むか噛まないかで崩れて、そこに熱く甘い蜜が染み込む。林檎はまだ歯応えを残していたし、レモンは蜂蜜と溶け合い甘酸っぱい。
 「……なんでこれをルキアに食わせなきゃいけねえ」
 雨竜が残りをラップに掛け、冷蔵庫にしまうのを見て一護がぼやいた。
 「もともと二人に食べてもらうために作ったんだよ。君の方が予定外なんだって」
 「何であの二人にコックやってんだよ」
 「僕が頼んだんだよ」
 ああん? と一護が視線を投げ掛けた。
 「一人で暮らしてると煮っころがしや青菜漬や、魚の煮付けとかの惣菜ばっかりになるからね……久し振りに洋風のレシピを試してみたかったのさ。ちょっと自信が無かったから二人に味見を頼んだんだ」
 なんでえ、と一護が唇を歪める。
 「別に俺でも良かったんじゃねえか」
 雨竜は自分の分のコーヒーを啜り、珍しく一護に屈託のない微笑みを見せた。
 「それじゃ意味がないんだよ」
 「何だそりゃ?」
 さあね。
 目を伏せ雨竜が呟いた。一護はつまらなそうに、まだ熱いパイに食い付いた。
 「うわたたた……」
 慌てて一護はパイを放して皿に戻した。まだ冷めてない蜂蜜が溶けて、一護の口に入る前に指にしたたる。
 「あーあー……ティッシュ取ってくれ、ティッシュ」
 蜂蜜の付いた人差し指を伸ばして一護が頼んだ。
 ああ、と頷いたけれど雨竜はティッシュをつかんで一瞬、一護の蜂蜜まみれの人差し指に視線を止めると、ティッシュから指を離した。
 「おい、早く寄越せよ」
 一護が急かすが、雨竜は何かに戸惑ったように黙っていた。突然何かに気付いて呆然としたように。焦れた一護が自分でティッシュを取ろうと左手を伸ばした瞬間、雨竜は彼の右手を取って、
 
 
 天気予報のせいでは無い。
 降水確率は90%。傘を持ってこないほうが悪い。春先の雨は、晴れの日の陽気から一変して冷える。
 雨竜は紺の傘を差して、薄ら寒い四月の雨の中の家路を歩いていた。傘に飛び込んで来たのはオレンジの頭。
 「おう、入れろよ」
 もう十分にずぶ濡れになった一護が傘に入ってきた。
 「君の家逆だろ」
 「もうちょっとそっち寄れよ。肩が濡れる」
 「やだよ、僕の方が濡れるじゃないか」
 チッと一護は舌打ちしたが、冷たい雨に打たれて顔色が冴えない。雨竜は、半歩だけ脇に避けた。左肩が雨にさらされた。
 「君が風邪引くのは構わないけど」
 家に着くと雨竜がバスタオルを一護に放った。
 「うつされると困る」
 一護は困ったような顔で躊躇っていたが、やがて上着を脱いでバスルームに入っていった。
 雨竜は脱ぎ散らされた上着をハンガーに掛けて、風通しのいいところに掛けた。
 
 
 焦れた一護が自分でティッシュを取ろうと左手を伸ばした瞬間、雨竜は彼の右手を取って、蜜にまみれた人差し指を口に含んだ。
 細い腕に掴まれたまま、一護は咥えられた人差し指を黙って見ていた。
 雨竜は一護の人差し指に付いた蜜を静かに舐め取る。台所に沈黙が降りる。
 「ほら」
 雨竜が俯いたまま笑った。
 「君だって気持ち悪いだろ」
 「猫かお前は」
 動かない一護が真顔で指先の雨竜を見つめる。その視線に打たれて雨竜は上目で睨むように見返す。
 もう一度目を伏せ、一護の指を咥えた。残った蜜を舐め取る。一護はされるがままに指を差し出している。不意に雨竜は一護の人差し指の第二関節を噛んだ。歯と骨がぶつかる音がして、カリ、と鳴った。
 「いって」
 ようやく一護はいつもの顔に戻ってほんのわずか、血の滲んだ人差し指を目の高さに上げて片目で見た。
 「ちぇ」
 滲んだ血を自分で舐め、今度こそティッシュで拭き取った。それから雨竜のパイに手を伸ばして、二口で押し込んだ。
 「ペナルティな」
 コーヒーで流し込むと一護は笑った。
 「こんなのでいいのかい?」
 空の皿を見て雨竜が聞いた。
 「他に何かしてくんのか? あ、コーヒーお代わりな」
 やれやれ、と呟いて雨竜はガラスポットを取った。白いカップに黒いコーヒーを注ぐ。
 「あとクリームと砂糖」
 「はいはい」
 黒い液体に白いクリームが回る。雨竜が呟く。
 「そうだね……合格点もらったら」
 「あん? 何が?」
 「このパイ、井上さんと朽木さんに合格点もらったら……」
 何かおいしいもの作ってあげるよ。
 そだな。
 一護はちょっと考えて答えた。
 今度はチョコレートパイがいい。んじゃなかったら明太子パイな。
 後者は却下、と雨竜はコーヒーを飲みながら即答した。