ボーイフレンド T
げんしけん 斑目波戸

 
 部屋に帰ると着替えもせず化粧も落とさず、波戸賢二郎は早速机に向かった。B5のコピー用紙を机に叩きつけると座ってシャーペンを掴んでノックする。
 (いいんだ……)
 体が火照って熱を持っているのが自分でも分かった。耳朶が真っ赤に焼けて熱かった。熱に浮かされシャーペンを走らせる。
 (いいんだ……描いちゃっていいんだ……)
 斑目先輩総受け……描いちゃってもいいんだ!
 今まで何処かで封をしていた妄想やら熱情やら萌えやらが、反動で弾ける。
 (やっぱり最初は私イチオシの高坂先輩×斑目先輩で……)
 シャーペンを握る手が余りの興奮で震えた。落ち着いて、落ち着いて……と波戸は自分に言い聞かせ深呼吸するが、またペンを持って紙に向かうとガタガタとペン先が震えた。ペン先だけでなく、膝から背中、胸、歯の根まで凍えるように震えていた。お陰でどうにかこうにか高坂×斑目を描き終えた時には全身疲れ果てて、知らずペンを固く握りしめていた右手の指は強ばり、関節が軋むようだった。
 それでも波戸は次のコピー用紙を引き抜くと震えながら、寧ろ慄きながらペンを走らせ続けた。
 (やっぱり次はササマダで……荻上先輩ごめんなさい。でも……止まらない……)
 喘ぐように息継ぎしながら、波戸は笹原攻め斑目受けのイラストをペン芯が折れんばかりに強く、筆圧高く紙に刻みつけた。描き終えると、動悸の余り眩んで机の上に突っ伏しそうだった。
 (いっそ横になっちゃいたい……でもお化粧落としてお風呂入ってからじゃないと……でも男に戻っちゃうとBL絵、描けなくなっちゃうし……)
 あと一枚だけ、せめてあと一枚、と波戸はティッシュで手の平を拭った。興奮の余り手の平はじっとりと汗で濡れていたからだ。
 (じゃあ次は……)
 どうしよう、と波戸は迷った。田中先輩攻め? 久我山先輩攻めはどうかな? 朽木先輩攻めは、あの、その、ちょっと置いといて……
 あれ? と波戸はそこでようやく我に返った。
 基本結局、自分は斑目先輩受けを描きたいんであって別に攻めが誰でもいいのかしらん?
 (だったら……)
 波戸は禁断の領域に思考を進めた。
 (……波戸賢二郎攻め、もアリなのかな?)
 思い当たった瞬間、頭の中が滾るような思いに襲われ目眩がした。
 (自分攻めって、それはちょっと……)
 でも、と波戸はペンを握りしめ覚悟を決めた。他人を自分の腐った妄想の、ある意味犠牲にしておきながら、自分を除外しておくと言うのは図々しくないですか? それに、と波戸は思い出した。
 「ハト×マダ……アリだな……」
 そう矢島たちの前で公言したでしょう。
 うん、と波戸は自分を奮い立たせた。と言うよりも自分に言い訳をした。第一、この場合の自分というのはあくまで男の自分、『僕』、波戸賢二郎であって、今、女の子の状態でいる『私』じゃない。何の問題も無い……はず。
 (大丈夫……のはず!)
 と自分に言い聞かせるもいざペンを取って真っ白なコピー紙の前に向かうと、今から自分が踏み込もうとしている域に昂ぶり、瞳孔が開いているのか目の前に光の細い線がちらついては消えを繰り返してこめかみがズキズキと脈打つのを覚えた。痺れる指先でペンを握る。
 (自分攻め……男バージョンの自分とはいえ、自分×先輩なんて……)
 横隔膜や、内臓までを緊張で震わせて波戸は描き始めた。
 自分×斑目。
 (これじゃあまるで……)
 描きながら気が付くと、波戸は涙ぐんでいた。自分の頭の中とは言え、まるでこれでは自分が斑目先輩を犯してるようなものだ。
 『ソレ』を描き上げると波戸はしばし茫然自失に陥った。ティッシュでぐずる鼻をかむと知らない内に頬までこぼれていた涙を拭う。
 体の芯にずしりと鉛のような重さと疲労を感じ、流石に風呂場へ向かった。女装を解き化粧を落とし、男に戻って湯船につかると、さっきまでの吐きそうな緊張がようやく落ち着いてきた。
 (描いちゃったな、自分×先輩……まったくもう、女の『私』ってしょうがないな)
 まるで他人事のように独りごちるが、波戸賢二郎の中では男の自分と女の自分は、別の人間という事になっている。
 風呂から上がると、異常な空腹を覚えた。部室から帰って真っ直ぐに机に向かって、あんなテンションで描き続けたんだから当たり前か、と波戸は時計を見て驚いた。気が付かない間にとんでもない時間が経っていた。
 冷蔵庫を開けて買い置きしていたコンビニのパスタをレンジで温める。食べながら、斑目先輩の作ってくれたパスタ、美味しかったな、とふと思いだし、自分でも分からず何故か赤面する。
 食べ終えて一心地着くと、風呂に入る前まで一心不乱に描いていた斑目受けのイラストの処分に困った。人目には見せられないな、絶対。何処かに隠すか、手動シュレッダーに掛けてしまうか……悩んだが、シュレッダーは無しにした。何処か、間違えても人に見つからないところに隠さなきゃ、と角を揃えて仕舞おうとした折り、不意に3枚目に描いた自分×先輩のイラストを見て立ちながらに悶えた。悶えたが、何度目を背けても何度も見直してしまう。見直すつど、シュレッダーに掛けよう、他の2枚はともかくこれだけはシュレッダーに掛けようと思うのだけれども、決心がつかなかった。
 (僕の馬鹿……何でよりによって自分攻めなんて描くかな?)
 そう思う一方、頭の片隅に浮かぶ女の『私』は狂喜する。
 (そうですよね! つい思い余って自分が先輩を犯すイラストを描いてしまったあと、我に返って罪悪感に落ち込むつつも処分できない! そしてまたそれが罪悪感に繋がると言う罪意識の連鎖! 王道です!)
 あーもう、どっか消えててよ、と女の『私』を脳裏から追い払いつつ波戸は3枚のコピー用紙を封筒に入れて棚の後ろに隠した。
 (なんだかんだ言いながらやっぱり処分できない! これは先輩が部屋に来た時に見つかっちゃって、それを切っ掛けにベッドに雪崩れ込むというフラグですね!)
 (先輩がこの部屋に来るわけないだろ!)
 抑えても抑えても湧いて出る『私』と独り問答しながら、波戸はベッドに横たわった。
 (もう……どうやって先輩と顔を合わせたらいいか分かんないよ)
 (『もう……どうやって先輩と顔を合わせたらいいか分かんないよ』! なんてお約束な!)
 「うるさい!」
 と、つい声に出してしまい、アパートの隣人から変に思われないか心配しながら波戸は寝返りを打った。
 
 
 予想もしていなかった。
 週末に軽いメイクとウイッグだけつけたユニセックスな格好の「波戸ちゃん」の姿のままアキバに女性向け同人誌を購入へ行ったときだった。雑踏の中でも一目で分かる後ろ姿を見つけた。せっかくの長身なのに猫背で、隙だらけの佇まい。ちょっと頑張っておしゃれしているのが、普段の彼を知っている自分には余計にかわいらしく思えた。
 声を掛けてもいいものだろうか……部屋に隠してある『自分攻め』イラストを思い出し赤面したが、その羞恥が逆に決心になった。
 「斑目先輩」
 駆け寄って後ろから声を掛けると、うお、と奇声を発して斑目春信は振り返った。
 「あ、ああ。波戸くんか。あ、いや。えと波戸さん?」
 落ち着かな気にアタフタと応対する斑目を見て、相変わらず受けな人だな、と波戸は苦笑した。
 「先輩も同人誌を買いに来たんですか?」
 場所は全国チェーン展開している某大手アニメショップの前だった。
 え、ええ? と否定するような前振りを口にしかけた挙句、斑目は頷いた。「……はい。そーですよ……」
 男の『僕』にだったら即答するのに……て言うか『僕』が行く先輩の部屋には同人誌置きっ放しにしてるくせに、と波戸は少しだけ落ち込んだけれど、最近では斑目の、男の『僕』へと女の『私』への応対の違いさえも女の波戸には萌え要素となっていた。
 (この女子に一歩退いちゃう距離感がまた、受けオーラを引き立たせちゃってますよ先輩)
 「3階ですか?」
 そのショップの3階には男性向け同人が売られている。
 「そーですケド。波戸くん……波戸さんは4階カナ」
 もちろん、4階は女性向け同人コーナーだった。
 「はい、そうです……」と、少し恥じらいつつ波戸は答えたあと、あの、と言葉を継いだ。「先輩はこの後、予定ありますか?」
 「え? 予定?……ウチ帰って買った本、読む、とかカナ?」と、答えたあと斑目は慌てて付け加えた。「いや、読むって、読むことだよ? リードだよ? 別に読んでナニゴトかをするとかそーいうコトじゃなくてね……」
 真っ赤になってオロオロと捲くし立てる斑目に、ふふ、と波戸は微笑んだ。
 「えっと、よろしかったらいつもお世話になってるお礼に、お茶でもご馳走させてもらえないかと思ったんですけど」
 「え、いーよ別に気にしなくてもさー」と、目を合わせず斑目は手を振ったが、波戸がその答えに俯いてしまったのを見て「じゃ……ちょっとだけ」とすぐに揺らいでしまった。
 波戸はほっとして笑った。
 「じゃあ、買い物が終わったら出入り口で待ってますから」
 「あ、うん。じゃ、その、そーゆーことで」と、斑目は店舗の中に入っていったが波戸も同じ店舗の4階へとやってきたのだ。3階まで並んで階段を上ったがその間、斑目は一言も口をきかなかった。
 「じゃ」と、3階男性向けコーナーの入り口で一言だけ斑目は言うと振り返りもせず入っていった。
 見えもしないのに波戸はその背中に軽くお辞儀して、4階へと上る。さて、と女性向けコーナーに入ると『ドゥアララ!!』の同人誌が並ぶ棚へと直行し、端から端へと文字通り片っ端から本を検分した。財布の中身には限界がある。見本と作家名と、そして直感だけが頼り。迷った挙句、4冊抜き出してレジに持って行きかけまた悩み、悩んだ結果棚に戻って、もう1冊だけ、と計5冊を持ってレジに並んだ。腕時計を見ると結構な時間が経っていた。いけない、と波戸は焦る。斑目さんと待ち合わせしてるのに。
 ようやく順番が回ってきた。波戸は本をレジ棚に置くと財布をバッグから取り出し代金を払おうとしたがその矢先、レジ係の女性から声を掛けられた。
 「はい?」と、波戸は顔を上げる。
 「あの、18禁の本が含まれていますので身分証などをお持ちでしたらお見せ頂けますか?」
 え、と波戸は思った。東京に出てきてから今まで一度も身分証の提示を求められたことはなかったのだ。
 「えっと、身分証……」と波戸は慌てて探したが、車の免許はまだ取っていない。「あの、学生証でもいいでしょうか?」
 「はい、結構です」
 ほっとして学生証を出そうとした時、波戸は当たり前のことに気付いた。
 学生証には、『波戸賢二郎』と、どう読んでも男の本名が書いてある。
 「あの、お持ちで無いとお買い求め頂けませんが……」と、少し引き攣った笑顔でレジの女性が言ってきて、さらに波戸を慌てさせた。学生証を握り締めたまま棒立ちになる。
 「あの……」と、心配そうにレジの女性が声を掛ける。後ろに次の客が並ぶ。波戸は真っ青になって立ち尽くした。
 「あの、アノデスネ、このコ、ウチの大学の後輩で、でして……」
 突然隣から聞こえた男の声に波戸は顔を上げた。
 「だから、その、ちゃんと大学生なんデスよ……えと、ダメですかね?」
 真っ赤になってしどろもどろに喋る斑目に、レジ係の女性は「申し訳ありませんが身分証のご提示が出来ない方にはお売り出来ないことになってまして……」とマニュアル通りの対応をする。
 斑目も無理な笑いを作って、デスヨネー、と相槌を打って見せると2秒ためらった後、言った。「……じゃ、俺が買うってことで、イイですかネ?……これ、会社の社員証デス……」
 レジ係の女性もようやく安堵してレジを打った。「3800円になります。ポイントカードはお持ちですか?」
 はい、と答えると斑目は財布からポイントカードを出した。
 ありがとうございました、と頭を下げるレジ係に、いえ、と呟いてレジ袋を提げた斑目は言った。「じゃ、波戸――さん。出よっか」
 言うが早いかさっさとゲートを抜ける。波戸は慌てて後を追った。
 階段の踊り場まで下りて、斑目は魂ごと抜け出るように重く長いため息をついた。「……死ぬかと思った」
 「すみません、本当にすみません!」と、ほとんど泣きそうに波戸が言うと斑目は、あ、いや、そーじゃなくてネ、と応えた。
 「遅かったから恐る恐る4階のぞいて見たらさ、キミが真っ青になって立ち尽くしてたからネ、ナニゴトかと思って……あ、これ、本」
 斑目が差し出すレジ袋を受け取りながら波戸はまだ、すみませんすみません、と謝りつつ、財布を出そうとした。
 「いや、ここじゃ物騒でしょ。どっか入ろうか」と言うと、斑目は店を出て歩き出したがすぐに立ち止まった。「ごめん。この辺俺、メイド喫茶くらいしか知らないんだよね」
 「先輩、メイド喫茶に行くんですか?」
 んー、と口ごもった後、斑目は白状した。「いや、実は行ったことないよ」
 波戸は笑った。「スバタがありますけど、そこでいいですか?」
 斑目は、えーと、としり込みした。「ごめん、あそこ苦手なんだわ。名前とメニューが結びつかないんだよね。高いし」
 だったら、と波戸は言った。「ベラーチェかトドールでいいですか?」
 ああ、あの辺だと助かるわ、と斑目はあくまで微妙に目をそらしつつ応えた。
 波戸が先に立ち半歩後ろから斑目はついていく。ここでいいですか? と駅前のベラーチェの前で波戸が訊くと、斑目は、ん、いいんじゃね、と適当を装って頷いた。中は込んでおらず、二人向かい合わせの席が取れた。
 「ちょっと失礼します」
 と波戸は言うと、レストルームに向かった。鏡に向かい女装した自分と向き合う。
 (男の『僕』に接する時みたいに、もっと普通に接して欲しいんですけど……)
 少し考え込んでから、やっぱり無理ですよね、と苦笑いしてウィッグを取った。意識が女の『私』から男の『僕』に変わる。ん、ん、と軽く咳払いで声を男に戻してレストルームを出た。
 「あれ? カツラ取っちゃったの? 大丈夫?」
 さっきまでとは違い、敷居を下げて男の『僕』に接する斑目の態度の変わり様に、波戸は少し寂しさを感じたけれど、それは億尾に出さないで答えた。
 「今日はユニセックスな服装で来たんで、ウィッグ取れば普通に男になれます」
 「おー。男声だとめっちゃリラックスすっわ」と今日初めて斑目は屈託のない笑顔を波戸に見せて、コーヒーを啜った。
 波戸も、あはは、と笑って見せると財布から本の代金を斑目に渡して、頭を下げた。「すみませんでした。ホント、助かりました。ありがとうございます」
 「も、別にいいんだけどさ」と斑目も笑って応える。「さすがに女性向けコーナー入んのはびびったぜ。男にとってあの入りにくさは普通じゃねえよな。波戸くんは平気なん?」
 「女になってたんで……」と恥じらって俯きながら波戸は答えると、へー、そんなもんか、と斑目は簡単に相槌を打った。
 でも、と波戸は俯いたまま続けた。「もうあそこで女性向け同人、買えません……とゆーか、もう18禁本、怖くて買えなくなりそうです」
 「今まで年齢確認、どうやってたん?」
 「訊かれたの今回が初めてだったんです。まさか年齢確認求められるとか思ってもなかったんで」
 「今日さ、ワリと中性的な服で来てっからじゃね? いつもみたく女子全開の格好で来れば店員さんもスルーしてくれっと思うけど」
 「だけどもう」と、波戸は落ち込んで言った。「今までみたく気軽に買えませんよ。さっきのはさすがにトラウマ級の思い出になりそうです。頭の中真っ白になりましたもん。今考えたら、身分証無いって言えばそれで終わった話なんですけどね」
 「あのさあ。最初っから男の格好で買えばいいんじゃね?」
 斑目の言葉に波戸は、えーと、と適当な例えを探した。「あの、先輩はレンタル屋さんで3次元AV借りたことありますか?」
 「あれ、そーゆーこと訊く?……いやまあ、無いこと無いけどな。波戸くんは?」
 質問がそのまま返って来て波戸は焦った。「……で、例えばですよ、成人向けコーナーに女の子が入ってきたら、ちょっと逃げちゃいませんか?」
 あ、こっちの質問かわしたなあ、と思いつつも斑目は律儀に波戸の問いに答えた。「ん、そーだね」
 「逆に言えば、女の子からすると女性向け同人コーナーに男がいると嫌だと思うんですよ」
 「そんなもんかねえ」と、斑目はコーヒーを飲みながら少し考えて言った。「でもよ、女の子一人入って来るとかだったらそんなに焦らねえなあ。一番ムカつくのってさ、カップルでAVコーナー入ってきてイチャつきながらDVD選んでるヤツらね。あれはガチで頭くんね」
 (……あれ?)
 波戸は意表を衝かれた。
 (先輩、気付いてないのか……)
 「あの、先輩?」
 「ん、なによ?」
 「さっきの僕ら、きっと周りから、そういう目で見られてたと思うんですけど」
 「え、どーゆーコト?」と何も気付かない斑目は聞き返した。
 「だから」波戸は斑目に説明した。「僕と斑目さん、カップルで女性向けコーナーに入って来やがって、と……」
 え? と言った斑目は飲もうとしたコーヒーカップを宙に浮かせたまま動きを止めた。カップをソーサーに戻すと、いやいやいや、と首を振る。「いやいや。ねえよ、ソレ。ねーな」
 「どうしてですか?」
 「いや、だってよ、女装してる波戸くん、めっちゃ可愛いじゃん。こんなダサいオタク男と付き合ってるとか思う奴いねえって」
 そう苦笑する斑目に波戸は、そんなこと無いです! と力説した。
 「先輩は自分のこと過小評価しすぎです! 先輩、背も高いしスリムだし、あと、えーと……」
 「いや、気持ちはありがたいけど、んな無理して褒めてくんなくてもいーよ」
 「無理してません! そうだ。僕も先輩の指、きれいだと思いますし!」
 え? と言うと斑目は口に持って行きかけたカップをゆっくり戻し、無言で両手を机の下に隠した。
 (そういうところが受けなんですよ!)
 波戸の『私』が斑目のその行為に身悶えするが、それを無視して波戸は謝った。
 「……すみません」
 「あー、いや。別に謝られるよーなこっちゃねえんだけどなあ……」
 「やっぱり嫌な思い出ですか?」
 「それって、夏フェスのコトであってる?」
 はい、と頷いた波戸に、んーどっかなー、と斑目は考える振りをして間を稼いだ。
 「夏フェスって一言で言っても色々あったしねえ」
 「あの、例の発言はすみませんでした……」
 「それはさ、もう別に気にしてねえからいいよ」
 (すみません……先輩が過去のことにしたがってるの分かりますけど、僕は先輩総受けイラスト、めちゃくちゃ描いちゃってます)
 と、波戸は自責に苛まれたが、斑目はそんな事を知る由もない。
 「つーか、波戸くん言いてえのはアンさんのことでしょ?」
 波戸が頷くのを見て斑目は続けた。「んーとね。そりゃさ、好かれてんだから悪い気しないよ? でも、なんつーかね……オタ男なんざちょっと誘えばすぐ釣れる、て思われてんのは癪だよな」
 「じゃあ、プライドと折り合いがついてればアンジェラさんと、その、そういう事に……?」
 あ、また卑怯なこと訊いちゃってる、と省みる波戸を他所に斑目は、いや、ねーな、と笑った。
 「話し戻るけどさ」と斑目が言った。「女子って、そんなに嫌なもんかね? やおいコーナーに男が来んの」
 波戸は少し考え込んで、言った。「実際、先輩も入りにくかったでしょ?」
 「それはさー……」今度は斑目が考えた。「うーん……でもAVコーナーに女子が来んのとは違う気すっけど?」
 「それとは違うと思いますけど、でも……」波戸は一生懸命になって言葉を探したけれど、自分の『気分』をうまく言い表せられなかった。「……でも女性向けコーナーにいるのは女子であるべきで……」
 だから僕もあっちに入るときは女装しなきゃなんです、と付け足した。
 はあ、とよく分からないまま斑目は相槌を打つと、波戸に訊いた。
 「げんしけんの女子連中はなんて言ってんの? つっても今のげんしけん、女子ばっかだけどね。あ、朽木君もいたか」
 斑目の問いに、波戸は答えられなかった。
 吉武も荻上も大野もスージーも、腐男子の自分を疎外したりしない。矢島は寧ろ女装する必要なんて無いと言っているのに。
 (そっか。結局……)波戸は悟った。(僕、まだ引き摺ってんだな。高校のときの事)
 僕はまだ、自分のままで誰とも繋がれてないんだ、と。
 ――今のところ僕が『僕』でいられるのは、ただ一人、先輩の前だけなんだ。
 (何のフラグを立てているんですか!? うっかり自分の気持ちに気付いちゃうなんてエンド間近ですよ!)
 (今、わりとシリアスな気分なんだからどっか消えててよ)
 語り掛けてくる『私』を黙らせようと、波戸はコーヒーに口をつける振りをした。
 (後は先輩が『私』の方の僕も受け入れてくれたら、きっともっと楽になれるんだけどなー……そんなの贅沢だって、分かってるけど)
 (『受け入れる』って! なんて事考えてるんですか私!?)
 (だーかーら、消えててってば)
 「どしたの波戸くん?」
 斑目の心配する声に、波戸は我に返った。
 「いや、何でもないです!」
 「何か悪いこと訊いちゃったかな、俺?」
 波戸は首を横に振った。「全然そんなことないです。むしろ、気持ちの整理がつきました」
 「え? 気持ちの整理? 何かそういう深いハナシしてたっけ、俺ら?」
 波戸は斑目のカップを覗き込んで空になっているのを確認すると、笑って「じゃあそろそろ出ましょうか。言ってたように今日は僕が払いますから」と言った。
 あー。じゃ、そーすっかね、と斑目は鞄を背負うと立ち上がった。
 


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