ボーイフレンド U
げんしけん 斑目波戸

 
 突然のノックの音に波戸賢二郎はギクリとし、洗い物の手を止めた。新聞などの勧誘系だったらどうしようと怯えつつ足音を控えてそっとドアの覗き窓から外を窺うと、分厚いレンズ越しに歪曲したスーツ姿の斑目晴信が見えた。
 「すみません」慌てて波戸はドアを開いた。「鍵、どうしたんですか?」
 「いや、持ってっけどね」と男の姿の波戸に安心して斑目は答えた。「ほら、着替え中だったら困るしさ。つーかどしたの? 今日、部室行かんかったん?」
 「えっと……」と、波戸は言い淀んだ。「行きました……」
 あっそ、と斑目はコンビニのレジ袋をローテーブルに置いてから気付いた。「あれ? じゃあ一回ここで着替えてから行って、んで、わざわざまた戻ってきて男に着替えてんの?」
 「……すみません」
 「いや、別に構わないんだけどね。ここはいつ来てもいいんだしさ」斑目は買ってきたビールを冷蔵庫に仕舞いながら気軽に声をかけた。「つーか、そんな気ィ使って洗いモンとかしてくんなくてもいーよ」
 そういう訳には、とちょっと焦りながら波戸は答えた。「こんな時間までお邪魔してますから、このくらいさせて下さい」
 ビール片手に斑目は顔を上げた。「何かあったん?」
 え? と言ったっ切り波戸は斑目と目を合わせもせず何も言えなかった。
 気不味い沈黙が訪れる予感に波戸は備えたが、斑目はビールを二缶もってベッドルームへ何も言わず引き返しただけだった。波戸はほっとしたけれど、同時に少し言葉も欲しかった。そんな自分を浅ましく思い、洗い物の洗剤を流しながら少々自己嫌悪に陥った。
 「洗いモン終わったかな?」
 不意に後ろから掛けられた声に、波戸は「今終わります」と慌てて答えた。
 「あっそ。んじゃ、交代」横に立った斑目がエプロンを着けながら言った。「何か食ってかね? 座ってビールでも飲んでてよ」
 「え? そんな訳には行きませんよ」
 「ん? あ、ビール飲まないんだっけ? じゃ冷蔵庫の中から飲めそうなの持ってっていーぜ」
 そういうコトじゃなくて……と波戸は言い掛けたが、結局何も言わず斑目の言う通りにした。
 (気を使ってもらってるんだろーな、これ……)
 プルタブを空けると台所に向かって、いただきます、とちょっとだけ頭を下げてビールを口にした。
 
 
 目の前に出された皿に驚いた。白飯に肉じゃが、白身魚のホイル焼……
 「あれ? 食えねえモンあったりする?」
 斑目の言葉に、いえ、と波戸は首を振った。「でも……」
 「え? 何かな?」
 「まさか肉じゃがまで作れるなんて……それも玉葱人参、糸コンまで入ってるし」
 悪かったな、と苦笑いすると斑目は椅子に腰掛けると缶ビールを音高く空けて飲んだ。「あーうめー」
 (いや、肉じゃが美味いですよ……こないだのパスタの仕返しに、じゃなくてお返しにと思って、こっそり肉じゃが、練習してたのに……)
 度重なる敗北感を覚えつつ、波戸は斑目手作り一飯を口にした。
 「つーかね」と一息吐いて斑目が言った。「一人暮らし今年で6年目だぜ? 肉じゃがくらい作れるようになるって。じゃ、俺も食べるかね」
 斑目は缶をテーブルに置くと、自作の夕食をつまみに、ちびちびとビールを飲んだ。
 「……んで、どうしたんか、訊いていいかな?」
 しばらく沈黙を挟んで斑目が言った言葉に、波戸は箸を止めてしまった。そのまま黙っている。
 「ちょっ、ゴメン。無神経だったわ」
 急いで斑目は自分の言葉を回収しようとしたが、波戸は笑って、大したことじゃないんです、と言った。「あの、ですね……」
 「あ、いや、別に無理して言わんでもいーよー」
 「いえ、ちゃんと言っとかなきゃですし、聞いてもらいたくもありますし」
 あー、そーなん? と視線をテーブルに落としたまま斑目は言った。
 「あのですね……」と波戸は話し始めた。「実は数日前から、帰りの電車から降りた後、何だか誰かに付けられてる感じがして……」
 「え、それマジなん?」
 驚く斑目に波戸は心持頷いて続けた。
 「最初は気のせいかなって僕も思ってたんですけど……昨日、駅を出たところで知らない男のヒトに声を掛けられて……」
 んーと、と斑目は濁しつつ訊いた。「それって所謂、ナンパ? かな?」
 躊躇った後、波戸は頷いた。「だと思います」
 んー……うーん……と斑目は唸った。
 「それで女装のまま帰るのがちょっと怖くなって……」
 「ああ、そりゃそーだろーね」
 「それで部室から直帰しないで、一旦ここに寄らせて貰って男に戻って……すみません」
 「だーかーらー。別に謝んなくていーって。ここはいつ来たって構やしねえんだしよ」
 つーかそれってマジでやばいんじゃね? と斑目は警告した。「警察に言っといた方がよくね?」
 今度は波戸が、んー……と濁したので、斑目は察した。
 「あーそりゃそっか。うん、まあ、言えねえわな。悪ィ」
 「あ、いえ……それでげんしけんの皆さんに相談したところ、部活終わったら男に戻って帰れ、と。すみません、先輩の部屋なのに相談もなしに」
 気にすんなよ、と斑目は笑ったが真面目な顔になって、「つーかさ、それよかさ……」
 波戸がその先を待っていると、斑目は顔を赤らめつつ小声で言った。「怖かったろ?」
 「え、いや、別に……走って逃げましたし。男に戻れば向こうも気付かないだろうし……」
 そこまで言ったところで、波戸の中で昨晩から眠れずに張りつめていた物が、ようやく緩んだ。気がつくと、俯いて目に涙を溜めてしまっていた。
 斑目は慌てふためいて何も言えなかった。こんな時、どうしたらいいのか分からない。笑えばいいよってか? いや、そーじゃねーだろ……大丈夫。相手、男だし……
 そう自分に言い聞かせながらも、二度三度、手を空中で戸惑わせながらも、最後、無言のまま手の平を波戸の頭にそっと置いた。
 「ん、怖かったよなあ」
 (ええ!? まさかの下克上ですか!?)
 「先輩……」と、波戸が涙目で、縋るように斑目を見た。「いつもとキャラが違いますよ」
 「んーだよ。言うコトァそれかよ。いつものキャラって……ああ、受けね。総受けね。ソーウケか。ま、俺あんま受けとか攻めとか分からんけどな」
 あはは、と波戸は笑って誤魔化した。「いや、その、そういうつもりじゃなかったんですけど……」
 「ま、お互い気にせんとこーや」と斑目は笑ってビールを飲んだ。「受け、ねえ……」
 あ、やっぱり気にはなってるんだ、と波戸は俯いて肉じゃがの残りを突付いた。それを見て斑目は、ちっと正直なとこ言っとこうか、と口を開いた。
 「まあな、やっぱあん時ァちょっとショック受けたけどな。俺、受けだったのかよ、てよ」
 「え?」
 と真顔で驚かれて斑目は、え? と驚き返した。「ん? 何よ?」
 「先輩はその、自分のこと攻めだと思ってたんですか?」
 「んだよその意外そうな顔はよ。大体なんで俺がげんしけん女子から受け認定されてんのか、さっぱ分かんねえよ……だから何だよその意外そうな顔はよ?」
 「あ、えっと……本人は自覚ないんだな、と思って……」
 斑目は酔いとは違う理由で少し顔を赤らめて、心持ち身を引いた。「波戸くんはその、『違う』んだよね?」
 「だから違いますってば! 腐女子観点から見たら先輩はガチで受けだっていうだけで別に男の僕にとっては……」
 無言で目を伏せてビールを飲む斑目に、波戸は失言に気付いた。
 (はっきり言っちゃった……)
 斑目が作ってくれた夕食を無言で食べ終えると、波戸は無言で食器を流しへ持って行こう立った。
 「あー。いーよ放っといて。自分で片すから」
 と言う斑目に波戸は、(そんなこと言って明日、僕が来たら流しに重ねたままにしてるくせに……)と思ったが口にはしなかった。
 (ちょっとだらしないところがあった方が萌えるんですよね!)
 「それより遅くなると、男のカッコしててもやっぱまずいんじゃね?」
 あ、と波戸は昨夜の恐怖を思い出した。見ず知らずの男、それも普段接点のない、いかにもナンパ慣れしてそうな男に声を掛けられた恐怖。
 青褪めた波戸を見かねて斑目は言った。
 「送ってくってワケには行かんけどさ。昨日の今日でまだ怖えってんなら、泊まってっても構わんけど?」
 波戸は絶句した。
 (どうしてこの人は自分のセリフがフラグ立ててるって気付かないんだー! 『私』が萌え苦しんでるじゃないかー!)
 「……いえ! さすがにそこまでお邪魔するわけには行かないんで」
 「あ、そう? 俺、よく椅子に座ったまま寝落ちしたりしてっから別に構やしねえんだけどね」
 「いや! もう風邪引いちゃう時期ですよ。そんな不健康な生活改めてください!」
 (いーですよー。不摂生な先輩を後輩の立場から叱っちゃう攻めな年下ですね!)
 (もうホント、黙ってて……)
 「どした? 波戸くん?」
 「何でもないです! じゃあ遅くまですみませんでした。ご飯まで頂いて……」
 いーっていーって、と斑目は笑って手を振ってから「んじゃ、くれぐれも気をつけてね」
 はい、と言って急いで斑目の部屋を出て行こうとして波戸はミスを、致命的なミスを犯した。
 例の棚に女装用の服を詰めた鞄をぶつける。棚に鞄がぶつかった音とは別の、棚の後ろの『アレ』が落ちた音がはっきりとした。
 斑目の血の気が引く。
 が、すぐにそんな必要が無いことに気付いた。波戸がその音に気付いて一瞬、足を止めどうしようか迷った後、聞こえなかった振りを決め込もうとしたのに気付いたからだ。
 波戸もまた血の気が引いたが、聞こえなかったことにして部屋を出ようとする自分の不自然さに斑目を横目で恐る恐る見た。
 それでお互いがお互いの気付きを、了解した。
 「あの……! その……!」
 焦って言葉が出てこない波戸に斑目は「いーよ、別に」と薄ら笑いを浮かべていた。
 「違うんです! 聞いて下さい! この間もこの棚に鞄ぶつけてそしたら何か棚の後ろに落ちた音がしたんで拾っとかなきゃって思ってそれで……」
 「うん」と斑目は平気な顔で遮った。「別に波戸くん、他人の部屋ガサ入れするような人間じゃねえって分かってるしよ」
 「すみません、すみません!」
 「だからいーって」斑目はビール缶の縁を見つめながら言った。「気にしなくていーよ。大体、今の一年以外、げんしけんの連中、みんな気付いてっしな」
 春日部さんも含めてさ、と斑目は付け足した。
 「え? それってどういう……?」
 「んー。こないだ笹原の妹、部室来ててさ。あ、笹原妹知らねーっけ? 一応げんしけん会員なんだけどな。幽霊会員だけどよ。『ミエミエだったんですけどー』って言われちまってたしな」
 でも……と言い掛ける波戸を遮って斑目は続けた。
 「まあ、考えてみりゃ当たり前なんだけどよ。笹原たちの代が卒業すっときにさ、大野さん、わざわざその、なに?……だから『ソレ』? 俺に持って来てこっそり渡そうとしてくれたし。んで、それが春日部さんに見つかって怒られてたし。他の連中も遠巻きにそれ、見てたし……」
 だからみんな気付いてたんだよ、俺がバレてねえって思い込んでただけでね、と斑目は言った。
 「だから別に……ねえ? 今更、波戸くんに知られても、どってコトァねえよ」
 ま、他の一年にはわざわざ言わねえでくれると助かるけどな、と斑目は結んだが最初から最後まで手にしたビール缶から目を上げることはなかった。
 「あの」と波戸が口を開いた。「それで……春日部先輩は?」
 「ん? 別になんも。そんな野暮じゃねえって、みんな。まあ、陰でどう言ってんのかァ知らねえけどよ。どうせ春日部さんも高坂と二人でいる時はネタにしてんじゃねえの?」
 「そんなコト言わないで下さい!」
 その強い口調に、斑目は一度波戸の方を向いて、またビール缶に視線を落として笑った。
 「だよなあ……分かってんだよ、ホントはさあ。高坂はそんなヤツじゃねえし春日部さんもさ、口は悪ィけど自分に横恋慕してるヤツの悪口、彼氏に言うような人じゃねえしね。つーか、げんしけんの連中、みんな陰で他人を笑いモンにしたりしねえ人間ばっかって分かってんだよ。分かってっけどさあ、分かってっけど……それはそれで俺、あんまり惨めじゃね?」
 泣いてるのかな? と波戸は思ったが斑目は泣いていなかった。ただ瞬きもせずじっと手の中のビール缶の縁を見つめているだけだった。
 「あの……やっぱり僕、今晩泊めて下さい!」
 ええ? と斑目は苦笑した。「いーよ、気ィ使ってくんなくて」
 「いえ、気を使ってません! ホントに怖いんです!」
 (これは……後輩としてはやっぱり放っとけませんよね!)
 (そーだよ! 放っとけないんだから黙ってろ!)
 苦笑したまま斑目はしばらく黙っていたけれど、「じゃ、も一本飲む?」と訊いた。
 「飲みます!」
 
 
 二人ともしばらく、ゆっくり黙々と飲んでいた。テレビ画面では夜のニュース番組が流れていて、時事の話題を斑目がポツリと振るたびに波戸が短く受け答えする。
 ニュースキャスターが、おやすみなさい、と言って番組は終わった。CMが流れる。
 「あの」と波戸が口を切った。「本当にすみませんでした」
 「んー? 何のこと?」と斑目はテレビ画面から目を離さず訊いた。
 「えっと……あの、封筒のことです……」
 斑目はまだテレビ画面を見つめたままだった。「だから別にいいって。偶々だったんでしょ?」
 「でもその、封筒はともかく、その中身を見たのはやっぱり好奇心からだったわけで……」
 しょーがねえさ、と斑目はまだテレビから目を離さない。
 (目、合わせてくれない……)
 (「こっち向いてくださいよ、先輩」ですよ! こんな時は!)
 (うるさい。わりと本気で落ち込んでんだから余計な口出しすんな)
 「あの」
 と波戸が声をかけたが斑目はやはりテレビをぼんやり見たまま、「んー?」と気の無い返事を返すだけだった。
 「あの……げんしけんの女子って見る目がないと思います! 先輩は格好いいのに!」
 「なーに言ってんだか」斑目はテレビを向いたまま乾いた笑いを作った。
 「だって斑目さんって背は高いしスタイルいいし優しいし料理できるし、かなりのハイスペックだと思います!」
 「高坂よりもかァ?」
 横顔を見せたままの斑目の自嘲気味の言葉に、波戸は何も言えず黙ってしまった。
 あー悪ィ、ヤなこと言っちまったな、とまた斑目は笑ったがやはり視線はテレビ画面を見ていた。
 「……こっち見てください、先輩」
 (結局言っちゃってるじゃないですか〜!)
 (いいから黙てろ)
 波戸の内心の葛藤とは別に、斑目は何気もなく波戸の方を見た。
 「聞いて下さい」と、決意を固めて波戸が言った。
 「ああ。なによ?」
 「実は僕の部屋にも隠してるモノがありまして……」
 「うん。まあ、誰にでもあるんじゃね?」
 「そういうレベルじゃなくて、ですね……」
 あ、そう、と斑目は頷いた。「多分さ、みんなそうなんじゃね? 自分にしてみりゃオオゴトでもよ、他人から見たら、ふーん、ってもんじゃねーのかな?」
 そう言って、ハハ、と笑って見せる斑目に波戸はカッとなった。
 「だからそーゆーレベルの物じゃないんですってば!」
 波戸の剣幕に斑目は、真面目な顔になって飲み掛けたビール缶をテーブルに置いた。「えっと、じゃあ……」と前置きしてから訊いた。「ナニゴト? か――訊いてもいい? のかな?」
 改めて斑目に訊かれて波戸は我に返った。顔を真っ赤にして、え、ええっと、と口ごもる。見かねて斑目が言った。
 「ああ、別に無理せんでもいーよ。何か気負ってるみてえだけどさ、アレのコトはお互い忘れよーや」
 「そーじゃないんです! 先輩に聞いてほしいんです!」
 (え? あれ? そーだっけ?……何で? 操られてる? 『私』に操られてないか、今の僕?)
 (ナニを私のせいにしてるんですか。私は介入してませんよー)
 「あれ? そーなん?」と苦笑しながら斑目が言った。「ん。分かったわ。えーとじゃあ、波戸くんが隠してるのって……」
 とまで言って、さすがに斑目も一呼吸置くと、波戸が混乱しているのが見て取れた。
 「何かテンパってね? 波戸くん?」
 「そんなことありません!」
 「いやいやいや、テンパってるでしょ。だからね、アレを気にしてんなら、も、いいってば」
 「……お願いですから」波戸は苦しそうに懇願した。「聞いて下さい。そっちの方が、もう楽なんです」
 「ん、まあその、無理すんなよ?」
 「一思いにお願いします」
 じゃあ、と恐る恐る斑目は切り出した。「波戸くんさ、部屋に隠してんのって、ナニ?」
 沈黙が部屋を覆った。
 テレビのスピーカーからメロディーが流れプロ野球選手がビールを美味そうに飲み干して今秋のビールの銘柄を言い、最後にメーカー名。CM一本分およそ15秒間、波戸は何も言えずに強く掴んだズボンの膝のしわを俯いて見ながら慄いていた。それから一度口を開きかけたが、唇を細かく震わすと閉じて唾を飲みまた、もう一度唇を開きかけた。声にならない音がハ、ハ、と口から漏れる。
 「おい、大丈夫か? だから無理……」
 すんなよ、と言い掛けた斑目を遮って波戸は棒のような声で言葉にした。「先輩総受けです」
 え? と、何を言われたのか分からない斑目はつい聞き返した。
 「斑目先輩総受けです」
 返ってきた答えにも訳が分からず、斑目は、え、ん? と疑問の声を口にした。「えーっと、まだその話?」
 「違います! イラストですよイラスト! 先輩総受けのイラストが僕の部屋の机の左のカラーボックスの後ろに封筒に詰めて隠してあるんですよ!」
 えっと……と戸惑いながら斑目は訊いた。「それはその、誰が描いたのかな?」
 「僕ですよ! 僕が描きました! 高坂先輩攻めの斑目先輩受けとか笹原先輩に攻められる斑目先輩とか! ノリノリで僕が描きました!」
 「あー……はーはーはー……うん」と一人で納得して斑目は温くなったビールの残りを飲んだ。「分かった」
 「ちょっと待ってください! 反応それだけですか!?」
 「ええ? どーゆー反応期待されてたん、俺?」波戸に詰め寄られて斑目は身を引いた。「だってよ、もっとやべえ地雷掘り起こしちまったかと思ってたからよ」
 「結構やばくないですか!? やばいですよね!?」
 「うーん……どうだろ?」
 「あ、まだそんなコト言っちゃうんですか? じゃあ取って置きを言っちゃいますよ? いいですか? いいですか?」
 「おい大丈夫か? テンパリ過ぎてテンション変なことになっちまってるぞ」
 「じゃあ言っちゃいますよ? イラストの中には……」とそこでさすがに一瞬躊躇い口ごもりそうになったが、一息に波戸は言った。「ハト×マダがあります!」
 さすがに斑目も話を掴み損ねて、え? と口を衝いた。「それってつまり……波戸くん攻めで、俺が受け、とか?」
 「そーですよ! そのとーりです! どうですか? 気持ち悪いでしょう? 軽蔑しましたよね!?」
 んーっと、と斑目はちょっと考えてからペットボトルのお茶を波戸に差し出した。「ちょっと落ち着こうよ、波戸くん」
 彼我の温度差に呆気に取られしばらく呆然としていたが、波戸は斑目の差し出すお茶を手に取ると我に返って、立ち眩みを起こし床に座り込んだ。オイオイ、大丈夫か? と斑目の差し出す手に掴まって、ベッドに座りなおす。
 「ま、とりあえずそれ飲んで落ち着きなよ」
 そう言われて、喉が枯れていることに気付いた。ペットボトルのお茶を一口飲むと、火照っていた胸の内がすっと潤い、知らず深呼吸が出た。
 「どうよ? 少しは落ち着いたか?」
 はい、とか細い声で波戸は頷いたが、今度は羞恥で顔を上げられなかった。ようやく、「あの」と俯いたまま声を出した。
 「ん? まだ何かあんの?」
 「ちょっと、言い訳してもいいですか?」
 「も、別にいいって。最近の部室行ったらあっちゃこっちゃにそーゆー雑誌とか置いてあっしよー。適度に免疫ついてんじゃね?」
 「聞いてやって下さい、お願いします」
 神妙な波戸の横顔に斑目は椅子の上で座りなおした。「はい、どーぞ」
 「あの、その……ハト×マダ描いたのは……僕じゃないんです」
 「あれ? いやさっき波戸くん言ったじゃんよ」
 「だからそこ! ちょっと聞いて下さい! あのですね!……」
 ほら落ち着いて、と斑目に促されてお茶を飲むと、幾分落ち着けた波戸は、続けた。
 「あの、ハト×マダを描いたのは僕じゃなくて……いや、僕が描いたんですけど、僕じゃなくて女装した僕が描いたんです」
 斑目はゆっくり首を傾げて見せて、不可解を表した。
 「えーと、ですから……あの、紙とシャーペン、あったら貸してもらえますか?」
 そっちの机にあっけど……と斑目が戸惑いながら言うと波戸は椅子に座ってその机に向かい、ガリガリと音が出るほど勢いよくシャーペンを走らせる。その間斑目はすることなく、手持ち無沙汰に黙っていた。
 5分ほど経って描き終えると、波戸は絵を持って来て斑目に見せた。「これが男の時の、僕の絵です」
 「へえ。上手いじゃんよ、波戸くん。ダークっつーかハードっつーか……そだなあ、アメコミ入ってるカンジ?」
 斑目がそう絵を評価すると、でしょう、と言って波戸は鞄から冊子を取り出した。「そしてこれが女装してる時に描いちゃう絵です」
 「ん? メバエタメ? こりゃまた懐かしーつーか。まだ続いてたんかー、ハハ。いやホント……って」
 頁を繰る手が波戸の描いたイラストの所で止まり、ええ? と斑目は声を上げた。「あー……あー、うん。こーゆー絵も描くんだ、波戸くん」
 「違うんです!」と波戸は強調した。「女装してる時はこーゆー絵しか描けないんです! そして男に戻っちゃうとこーゆー絵は描けなくて、さっき見せたような絵になっちゃうんです!」
 ええ? と斑目は疑いの苦笑を浮かべた。「ウッソだー」
 「本当なんです!……大野先輩が言うには、女装がスイッチになってるんじゃないかと……」
 「スイッチ? 何の?」
 「ええっと……何て言うか、僕が腐女子になる為の、です」
 はあ……と、斑目はため息をついた。「なるほどねえ……」
 空のビール缶を手に取って振って見せると、滴が跳ねて弾ける音がした。
 「ま、オタクにゃありがちだよね」
 斑目の言葉に今度は波戸が聞き直した。「何がですか?」
 「なんつーの? そーゆーさ……一種のキャラ作り?」
 「そうですか?……」と波戸が懐疑を述べると斑目は、「波戸くんほど徹底して作りこむ人間は少ねえけどさあ」と続けた。
 「いや、だってさ、俺だって現役の頃は作ってたしねえ」斑目は照れて笑った。「今思うとイタかったな、ありゃあ」
 あの、と躊躇いがちに波戸は口を開いた。「学生の頃の先輩って、どうだったか訊いてもいいですか?」
 「えーとね、まず、『前世はヘビ』」
 「え?」と言ったっ切り波戸は何も言えずにいたが、それを他所に斑目は続けた。
 「あと『普通のエロ本なんてもってねーし、アニメ絵で抜けないヤツはおかしい』とかな。あとはよォ……笹原に妹がいるって知った時『血の繋がった妹なんて要らねえよ』とかほざいてたっけかあ。つーかよ、大体俺、ロリコンキャラだったハズなんだがなあ。おかしい」
 「えー! それはないなあ! 今の先輩と全然違うじゃないですか!」
 だーかーらー、と斑目は手の平でビール缶を弄びながら波戸に言い聞かせた。「キャラ作ってたんだってば。嘘と思うなら田中か久我山か、じゃなきゃ大野さんに訊いてみなって……そーやんないとあの頃ァ、周りとコミュニケーション取れなかったんだよな、きっと」
 昔を懐かしむような、或いは羞じるような視線で手の中のビール缶を眺める斑目に、波戸は口を挟みたくなかった。
 「そーいや荻上さんも最初はさあ……って本人いねえとこで言えるこっちゃねえか。まあ、参考にしたけりゃ荻上さん本人か、本人いるとこで大野さんにか、真剣に相談してみりゃきっと教えてくれるぜ。イロイロとよ」
 「あの……」波戸が遠慮がちに口を開いた。「じゃあ先輩が、その……『キャラ作り』をやめられた切っ掛けって、なんですか?」
 「やっぱ……」と言い掛けて斑目は顔を赤らめて俯いた。うん……うん、まあそーなんだけどさ……と一人で納得する。チラと上目遣いに波戸を見るとまた俯いてから、ようやく言った。「やっぱ、さ。三次元女、好きになっちまったあたりかねえ……」
 波戸は言葉に詰まったが、斑目は口に出せていっそ、すっきりしたようだった。
 「例えば荻上さんもさ、笹原に救われた部分、大きいと思うぜ。まあ推測なんだけどよ……波戸くんってパソコン持ってっけ?」
 波戸が、はい、と答えると斑目は続けた。「OS何使ってっか知らねーけどさあ……エミュレータって分かる?」
 「えっと確か、OSの上で別のOSっていうか、別のプラットフォーム動かすための物、じゃなかったですか?」
 「そう、何かそんなの。詳しく知らんけど」と斑目は言った。「でさ、オタの『キャラ作り』って、多分、そのエミュレータみたいなんじゃね?」
 波戸は黙って、斑目の続きを待った。
 「多分、俺らちょっと社会不適応なオタってさ、基本入ってるOS、あんま汎用性ないんだわ、きっと。際ど過ぎるって言うかね。普通のOSで動く『社会』とか『世間』ってソフトが動かねえんじゃねえかな。そんだから『キャラ』ってエミュレータ入れてんのかもな」
 「それって、恋愛とどう関係するんですか?」
 そう言った波戸の本気の眼差しに、斑目は考えてから口を開いた。
 「別に恋愛に限んないんだけどさ。だれか『他人』――自分とは違う『他人』と繋がりたいと思った瞬間、今までの自分のOSぶっ壊して、てまでしないまでもさ、ハッキングかまして新しいOSに作り変えることを強いられるんだろーな」
 ――他人と繋がる。
 その言葉が波戸に響いた。
 げんしけんの外ではいつも一人。げんしけんの中でも『キャラ作り』してないと溶け込めない。目の前のこの人が、男の『僕』のただ一人の――
 「ああ、何か語っちまったなあ。酔ってんのか、俺?」
 斑目が眠い目で呟く。
 「んで俺もう、布団出して床で寝たいんだけど、いい?」
 「いや! そんな。僕の方が無理言って泊めて貰ってるんだから、僕が床に寝ます! 先輩は明日もお仕事なんだからベッドでゆっくり眠ってください!」
 ああそう? 悪いね、と言って斑目は布団を出すと、自分はベッドに潜り込んだ。すぐに寝息が聞こえる。
 波戸は床に枕を置くと、電気を消して、ブランケットに包まり固いフローリングの上に横になった。
 斑目の寝息と、時計の秒針の音だけが聞こえる中、まんじりともしないで暗闇に目を凝らす。
 人恋しかった。初めて自分の趣味を本当の意味でさらけ出した。それでも拒絶されなかった。
 (どれだけ受けなんだかな、この人)
 波戸は起き上がって斑目の眠るベッドの脇に立った。
 「あの」と遠慮勝ちに低く声を掛ける。斑目は夢現で薄目を開ける。
 「横、いいですか?」
 「んあ? やっぱ肌寒いか。でも俺が右ね。俺、他人が左にいると眠りにくいんだわ」
 それだけ言うと斑目はベッドの右に詰めた。
 空いたベッドの左端に、そっと波戸は体を滑り込ませる。そのときにはもう、斑目はまた寝息を立てていた。
 (グッジョブです! どさくさに紛れて斑目さんと同じベッドに眠るのに成功するなんて! 今度こそエンディング間近ですよ!)
 (うるさいな)
 怒るわけでもなく昂ぶるわけでもなく、波戸は冷たく『私』に言い放った。
 (黙っててよ。お前には分かんないよ)
 薄っすら波戸の目に涙が溢れた。
 (この人だけなんだ。この人だけが、僕のボーイフレンドなんだ。興味本位のBL妄想で、この人を僕から奪わないでよ)
 背中に斑目の体温を感じながら、波戸はこぼれそうになる涙を人差し指の第二関節で、拭った。
 


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