Tough & Edge
L to R ver.


長い腕が、吊革を吊るす金属の横棒を握っている。
電車がガタンと揺れた。
「妙な取り合わせになったな。」
長い腕の持ち主の少年が唐突に呟いた。
「うん。」
華著な少年が答えた。こちらは天井から真っ直ぐ床へ備え付けられた金属の縦棒を握っ て、電車の振動に備えている。
一人は腕の長さに比例して長身、もう一人はやや低め。
長身の少年はきつい目をした無愛想な顔つき。華薯な少年のほうは子供っぼさの残る線 の細い、柔らかな表情をしていた。
二人とも部活から直行のスポーティーな格好で、肩からスポーツメーカーのロゴの入っ たバッグを下げている。
電車は揺れながら進み、会話は続かなかった。
「…カザくんは?」
一言口をきいたきり沈黙していた長身の少年に、もう一人の少年が口を開いた。
「少し足首を捻ったらしい。松下から休むよう言い渡されている。」
「…ひどいの?」
「いや。」
「どんな感じ?」
「オレは医者じゃないので知らん。整体士の松下が大丈夫と言ってるんだから大丈夫な んだろう。」
心配そうに聞いた華著な少年――杉原――に、窓の外を見たまま長身の少年――不破―― は簡潔に答えた。
「…ふうん…不破君はあんまり心配じゃないんだ?」
「重傷ではなかったからな。安心はしている。」
「そっか…。」
会話はそこで途切れた。
電車は進み、駅で停止し、また進みまた停止する。
「小岩はどうした。」
沈黙のまま二つ駅を過ぎたところで、不破がようやく口を開いた。
「小岩君ね、」
杉原は普段から柔和な顔を綻ばせた。
「追試なんだって。」
「ふむ。小岩は頭が悪いのだな。」
うん、そうだね、と答えるわけにもいかず、そんなことない、とも言い切れず、杉原は 迷ったのち、
「勉強は苦手そうだね。」
と、言葉を濁した。
電車が速度を緩めた。
フットサルクラブのある駅に到着した。


「二手に分かれたほうが効率が良さそうだな。」
不破が言った。
5面ある柵に囲まれたコートの中を、ジャージやティーシャツ、ハーフパンツにパーカ ーなどスポーツウェアを着た老若男女が忙しく声を上げ、駆け回っている。コートの外で は順番待ちの人々が柵越しに試合を見物したり、座り込んで体を休めていたりしていた。 小学生から不惑、知命まで様々な年頃の人々が、様々なやり方でこのスポーツを楽しん でいる。
必ずしも5人ちょうど揃うとは限らないので、4対4でやっているコートや、体力差の ハンデを付けて5対6でやっているコートもあった。
いつもは不破と杉原に風祭、小岩と4人で訪れるので、もう一人体の空いている人間を スカウトしてきて5人揃えるのだが。
「うん。そうだね。」
二人でいて3人探すより、一人ずつ、それぞれどこかにまぜてもらう方が早そうだった 。
「じゃあ帰りはどうする?」
「お互い適当なところで切り上げて帰れぱいいだろう?」
杉原の問いに、不破は当たり前のように答えた。
「…うん。そうだね。」
期待したらいけないんだ
うなずくと杉原は笑って、じゃ、と手を上げて不破と反対のほうに歩み出した。
「なあ、君キーパー出来るのかい?」
三十代半ばほどの男性が、不破のグローブを見て声を掛けてきた。
「ああ。そのつもりで来た。」
「じやあ、ウチでやってくんねえかな?人数足んなくてさ。」
不破がうなずくと男は向こうでボールを蹴っていた二人組に、おおい、キーパー確保し たぞう、と声を上げた。
「あと一人は?」
二人組のうちアディダスのロゴが大きく入ったトレーナーを着た方が聞き返してきた。
「もう一人要るのか?」
不破が聞くと目の前の男がうなずいた。
「君、誰か知らないかなあ。」
「知っている。」
不破は振り向くと一人でぼんやり立っていた杉原に叫んだ。
「おい。杉原多紀!」


「君ら上手いなあ。学校の部活とかでサッカーやってる?」
3ターンやったあとコートを出ると、最初に声を掛けてきた男が聞いてきた。
「はい。」
杉原が素直にうなずくと、不破が付け足した。
「そいつは東京都選抜にも選ぱれている。」
おお、と三人の男性から声が上がった。
「道理で上手いはずだわ。」
アディダスのトレーナーが呟いた。
「ふ、不破君だって、」
あわてて杉原が言い掛けると不破は、
「オレは落ちた。」
と毅然と言い返し三人の笑いを誘った。
「落ちたのにえらく威勢がいいね、きみ。」
三人の男たち――大学で同窓だったサラリーマンだと言った――のなかで一番 無口だった男がくすくす笑いながら言った。口数は少ないがゲーム中、的確なコーチング でこの混合チームのバランスを上手くとっていた。
「じゃあな、少年たち。がんばんな。」
三人の男たちはそう言って帰っていった。
「さてと、」
杉原が更衣室のロッカーの鍵を取り出しながら言った。
「じゃあボクも上がるよ。お先に。」
「待て。」
「なに?」
「オレもそうする。」
不破はキーパーグローブを外しながら答えた。
あ、ああ、うん、と戸惑う杉原を置いて、不破はすたすたと更衣室へと歩いていった。


「あれ?」
「何だ。」
「帰ってなかったの?」
更衣室を出たところに待っていた不破に、杉原が言った。
「一緒に帰ろうと思っていたのだが。」
無言で杉原がいると不破が続けた。
「そんなに嫌か。」
「いや、どうして?」
あわてて杉原が聞いた。
「いま非常に心外な顔をされたのでな。」
「…不破くんもそういうこと考えるんだ、と思って。」
「そういうこと、とは?」
「他人を待って一緒に帰ろう、とか…」
「オレがそういうことをすると変か?」
…変じゃないけど、と前置きして杉原は答えた。
「他人は他人、自分は自分って割り切って考えてる人だと思ってたから。」
「杉原は杉原でオレはオレだろう。そしてオレが杉原と一緒に帰ろうと思い付いて、そ の思い付きに従って一人でおまえを待って事を打診しようとした。どこか矛盾しているか ?」
「…いいや、多分。」
しばらくの沈黙のあと、杉原はそう答えた。
不破はその頭脳を回転させやがて一つの結論を出した。
「すまなかった。迷惑だったようだな。」
そのまま顔色一つ変えず駅へと歩き始めた。
「ふ、不破くん?ちょっと待って!」
あわてて杉原は後を追った、不破は立ち止まって振り返った。
「何か間違えたか?」
「うん。」
「…すまん、どこが間違えてるのか分らん。」
杉原は不破の横に並ぷと、自分より16センチ高い長身を見上げた。
「一緒に帰ろう。」
事の成り行きが理解できずに、不破は沈黙したまま真横に並んだ杉原を見下ろした。や がて、ここでの思考は無駄だ、と結論付けてから、
「うむ。」
とうなずいた。


帰りの電車では席を確保できた。車両一番端の壁際。二人並んで座った。
「高縄は私立だったな。」
杉原の制服を見て不破が眩いた。
「うん。」
ホック式の詰襟学生服。上から校章の入ったダッフルコートを着ていた。
不破の呟きに確認以外の意味は無かったらしい。そのまま黙って座っていた。
「…不破君は部活のあと一度家に戻ったの?」
「いや。」
「制服は?」
「バッグの中だ。」
「着替えなかったんだ。」
「何のため?」
不機嫌そうに目を細めて不破は答えた。
「怒ってるの?」
「何故?」
「…いや、別に…」
二人の会話はそこで終わった。杉原もあえて口を開かなかった。
レールの繋ぎ目のたぴ、電車が揺れ二人の肩が軽く擦れ合う。不破は体を揺らしながら 、その睨むような目で床の一点を凝視していた、杉原は不破と壁の隙間で、両手でパッグを 抱え込んでいた。
車内アナウンスが次の停車駅、水道橋の名を繰り返した。
「じゃあ。」
杉原がその狭い場所から身を振らせて立ち上がっても、不破は無言だった。杉原はもう 一度声を掛けようか迷ったが、そのまま黙って席を離れた。
電車が速度を落とす。それに従い振動も大きくなった。杉原は視界の端でもう一度だけ 不破を盗み見た。電車の揺れとともに大きく櫓を漕いでいる。
(…あ!)
杉原は人の流れに逆行するともとの席に戻り、不破の体を揺すった。
「不破君?不破君!」
「…飛龍小学校に伝わる飛龍エメラルド…」
半眼で不破は寝言を呟いた。
(そうだ。薄目開けたまま寝れる人だった!)
「…それを手にしたものは一年生ですら六年生を倒せると言う!…」
「不破君って!不破君!」
電車が止まった。扉が開いて人が流れ出て行く。入れ代わりに人が乗ってきた。
「…ああ…」
杉原はあきらめてもとの狭い座席に体を押し込め呻いた。不破は焦点の合っていな い虚ろな眼差しでブツブツ呟いている。杉原は不破の瞼をそっと撫でて下ろした。途端に 不破の体が崩れた。
「おっと!」
前のめりになりかけた不破を支え、自分の肩に乗せる。余計に杉原の場所は窮屈になっ た。
(単に眠かったんだ。)
さっきの不破の態度に合点がいって少し安心した。
安心し切った寝顔がすぐそこにある。いつもの無愛想顔から角がとれ、懐いた野良猫の ような素直さを見せていた。
髪が頬をくすぐる。
(どこで、)
車両の隅に二人、押しやられたように。
(降りれぱいいんだっけ。)
見たことの無い、不破大地の穏やかな顔。


新宿まで待って、そこで降りた。
背負うと言うより引き摺るようにしてベンチまで運んだ。不破がまたプツブツ呟き始め たので目を覚ますのを待ったが、起きる気配は無い。プラットフォームのベンチに座らせ、 そのとなりに杉原が座って不破を寄り掛からせた、秋深い夜の寒さ、杉原はダッフルコー トを脱いで不破の肩に掛けた。
(さて、どうするかなあ、)
電車が轟音とともにやってきて止まり、人を吐き出し吸い込み、また走り去る。雑踏の 中、二人に注意を払うものはいない。
不破の鼻をつまんでみた。
不破は苦しげに顔をしかめ、ハアッ、ハアッ、と喘いだ。
杉原はくすくす笑って手を離し、ティッシュでコヨリを作って不破の鼻をくすぐった。
今度はスンスンと鼻を鳴らす。
筆ペンを取り出し、極細の方でドラえもんのひげを左右の頬に三本ずつ描いてみた。
(猫かな、犬かな…やっぱり猫かな…でも)
――案外犬かもね。杉原は思った。
耳に息を吹きかけてみた、あまり反応はない。
耳朶を軽く甘咬みしてみた。今度はくすぐったさそうに肩をすくめて、
「…不味いぞ…そこは……」
と低く呟いていた。
唇で唇をこすってみた。
ガチャン…ガチャン…と鈍い金属音を鳴らせ、電車がプラットホームに入ってきた。
「…最後のは何だ?」
「あれ?起きてた?」
「うむ。」
「どこから?」
「顔に何か描かれた辺りからか。」
不破は赤い目をしばたたかせながらダッフルコートを肩から外し、杉原に返した。
「もう冬だな。」
「着てていいよ。」
不破がジャージのファスナーを一番上まで引き上げながら言うと、杉原がコートに袖を 通しかけたまま応えた。
「いや、いい。それよりこれだな。」
「擦ったらよけい滲んじゃうよ?」
顔のひげを袖口で拭おうとする不破を、あわてて杉原が止めた。
「…このまま帰れと?」
「お似合いだよ、狸には。」
「おまえが何をするのか興味があったのでな。」
ふーん、と笑うと杉原は、じゃあね、と手を振った。
「悪かったな。遠回りさせて。」
「いいよ、別に。」
そう言って復路のホームヘ踵を返しかけた杉原に、もう一度不破が繰り返した。
「『最後のは何だ?』」
「知らないの?」
――キスだよ。
振り向いた杉原が答えた。
「何故オレなんだ?」
「別に、」
「おまえが本当にそうしたかった相手は、」
ああ、彼のことを言うんだな、と杉原は悟った。
オレはあいつのことを言うな、と不破は今から口にする名前を知った。
そしてお互いがお互いの心中に、同じ一つの名前が過った事を理解し、そしてお互いが お互いにそのことさえ理解したことさえ理解していた。杉原は、杉原が理解したことを不 破が理解したことを理解していたし、不破は、不破が理解したことを杉原が理解したこと を理解していた。
一つの名前。
それでもその名を。
「…風祭、だろう?」
「そうだよ。」
――そうか。
不破は呟いて京王線乗場に向かった。
「またね。」
水道橋へと戻るホームに立ち、杉原が笑って手を振っていた。
「ああ。」
不破は肩越しに応えた。
快速を運良くつかまえ、桜上水まで十五分揺られた。その間まわりの視線を感じ、今の自 分にひげがあることを思い出した。思わず擦ろうとしたが、杉原の忠告にしたがって家に着く までそのままでいることにした。
Tough & Edge2
L to R ver.


「じゃあまたね、カザくん、不破くん。」
「じゃあな、不破、風祭!」
閉まる電車のドア越しに、杉原と小岩が手を振った。
風祭と不破も手を振り返した、風祭は人懐っこい笑顔で屈託なく、不破は機械仕掛けの 手首のように。
ゴトン、と揺れると電車が動き始めた。窓の向こうに杉原と小岩が並んで何か喋りなが ら階段を下って消え行くのが見えた。
電車は速度を上げ駅を後にし、すっかり暮れた初冬の夜の中を流れて行く。窓には外の 景色ではなく車内の風景が映っていた。
窓の中の不破と風祭の目が合った。
「何だ?」
不破は隣の風祭に尋ねた。
「いや…」
風祭は窓のこちら側の不破に視線を移し、そして気後れしたように俯いた。
「何だ?」
「うん…」
遠慮や気兼ねを無用と踏み越してくる不破に、風祭は困惑して言葉を濁した。
「後でね、」
「…そうか。」
愛想を人生の利便と考えたことの無い不破は、いつもの無愛想な顔で応えた。
沈黙が続く。
「…やっぱりゲームは楽しいよね。」
耐え兼ねて風祭が口を開いた。
「部活でも紅白戦はやっているだろう。」
「うん、でも練習の一環のゲームじゃなくって、…ただサッカーを楽しめるのが嬉しい んだ。」
素っ気無い不破の返答に風祭は一々素直に応える。
「…そうだな。」
珍しく不破が同意した。
「不破くんは、」
風祭が真っ直ぐの目で不破を見上げた。
「サッカー好き?」
「興味はあるな。」
しぱらく思案して答えた。
「どんなとこが?」
「ロジックと偶然性が渾然していて、なおかつその両者がクロスオーバーして載然と分 けがたいところか。」
「……。」
「何故黙っている?」
「ごめん。よく分んなかった。」
不破は標準装備の無愛想な顔の眉をひそめた。
「言い方が拙かったか?」
風祭は首を振った。
「違う、ボクが理解できなかっただけで…」
「そうか、ならいい。」
何のフォローも入れず、不破はうなずいた。


こぎれいな京王線桜上水駅を出ると、本格的な冬の前触れの冷たい空気が鼻を突いた。
「早いね、もう師走だ。」
「この時期、みな同じことを言うな。」
ははは、と風祭は笑った。
「そう言えば今月は不破君の誕生月だね。」
「うむ。」
「まだ不破くんのより僕が年上なんだ。」
「今年ぎりぎりまでな。」
「珍しいよね、大晦日生れって。」
「365日誰かの誕生日だ。生まれる日を逆算して事に及ぷ親はおるま…」
うわー!と、風祭は赤らめた顔を振って不破を遮った。
ふ、
と珍しく相好を崩して、不破は未だ一つ年上の初心な少年を見下ろした。まだ風祭は耳 まで赤い。
「それで?」
風祭が顔を上げると、不破はいつもの顔に戻っていた。
「何か話があったのだろう?」
うん…。
しぱらく風祭はためらってから口を開いた。
「杉原くんとなにかあったのかな…って。」
突然飛ぴ出したその名前に不破は自分の副交感神経が刺激されたことに気付いて、少々 驚いた。
「何故?」
「なんとなく…」
風祭は俯いて自分の勘の源泉を探っていた。
「なんとなくいつもと『感じ』が違う…って気がして…」
そう言えば少し特殊な家庭環境だったな、と不破は思い当たった。
その偶に見せる鋭さが全て育った環境にあるとは思わないが、全く無いとも思わない。
自分のことにはやたら鈍いが。
他人が無理に埋めた傷や痛みには、妙な所で敏感で…
(イラつく。)
「不破くん?」
「何だ?」
平静を装ったが、瞬間自分の胸の中で弾けた言葉に不破は愕然とした。
今まで、他人が口にするところは何度も耳にしてきたが。
「ごめん。」
他人に言われたことも何度もあったが。
「何がだ?」
自分の中から不意に突出したのは。
「今…不破くんちょっと怖かったから…」
(まただ。)
佐藤が自分たちより年嵩だと気付いたのも、風祭だった。
「それはいつも言わていることだ。『怖い』だとか『クラッシャー』だとかな。」
「でもこの頃はみんな不破くんのこと親しんでるよ。」
「…そうか?」
よく分からない。
「じゃあね。」
分れ道で風祭が手を振っていた。
屈託の無い笑顔で。
さっき杉原たちに見せたのと同じ笑顔で。
――…風祭、だろ?
――そうだよ。
「ああ、また明日な。」
不破は手を上げ応えると、振り向きもせず足早にその場を離れた。


(『杉原くんとなにかあったのかな…って』)
聞かれたことには結局答えなかったな。
一人で家路を歩きながら、不破はそのことに気付いた。


「ん、不破はどうした?」
グラウンドを見渡した松下がランニング中の高井に聞いた。
高井も同じくグラウンドを見回して、不破の不在に気が付いた。
「あれ?そういや来てねえなあいつ。」
「休みか?」
「いや、学校には来てたみたいっすけど。」
「あー不破先輩なら…」
通り掛かった女子部の戸田が会話を耳にして答えた。
「私が部活に来る途中、裏門の方から学生服のまま出てく先輩見かけたんで、『今日サ ボリですか、不破先輩?』って聞いたら、何だかごにょごにょ言ってましたよ。」
「……」
松下と高井の口を沈黙が蓋った。
「どうしたんですか?」
戸田が聞いた。
「不破にそーゆー台詞を言っちまったことに対してか、不破がごにょごにょだったこ とに対してか、どっちに驚けぱいいのか分んねえんだよ。」
高井の答えに学年違いの戸田はその意味がよく分からず、はあ、と首を傾げた。
「不破がねえ…」
松下も不破の様子が上手く想像できずに呟いた。それから戸田に詳しく聞いた。
「ごにょごにょ、ってのは大体どんなことだったか、分からんか?」
「んーと…『サボリではない』とか、『ちょっとした偵察だ』とか…あと『はっきりさ せに行くだけだ』とか全然はっきりしない口調で…」
「うわー見てみたかった。はっきりしない不破を見てみたかった…!」
百年に一度の珍事を見逃して高井は天を仰いだ。
「おい、ランニング中だろうが、ウォームアップはきっちりやっとけ。ケガのもとだぞ 。」
松下に言われながらもまだ惜しそうな様子で、高井は走り去った。
「私もアップの途中だったんで…」
「ああ、すまなかった。」
戸田は走りはじめたが、あ、でも、と足を止め松下に振り返った。
「いつも不破先輩が部活に持ってきてるスポーツバッグ、今日も下げてましたよ。」
そしてまた走り始めた。
「『ちょっと偵察』ねえ。」
また野呂の時のように余所の学校で何かやらかす気じゃないだろうな。
松下は不安に思いながらも、それはそれでいいか、と考えた。


松下の心配は半分的中し、半分杞憂に終わった。
『関係者以外立入禁止』の縦書を無視し不破は高縄中の門をくぐったが、したことはた だ、目立たないところからグラウンドを見下ろしただけだった。
サツカー部は紅白戦の最中だった。
(4―5―1か)
四人のディフェンダーがフラットに並ぴ、五人のミッドフィールダーが横に広く、少し 崩れたW型に配置されている。守備的ミツドフィールダーほど低くなく、トップ下より一 つ深い位置が杉原のポジションだった。
(なるほど、あそこなら守備の負担も相手のプレスも比較的少なくポールが持てて、前 の二人とサイドに配球するのに都合がいい。パサーの杉原向きだな。)
ボールが杉原を経由すると、正確な中距離パスが自在に敵陣内を通過する。バランスよ く散らされるので、相手のディフェンスラインは間延ぴするか深くなってしまう。杉原に 厳しいマークが付くと、ポランチの選手が上手くフォローに入る。
(ふむ。いいチームだな。)
全員がレベルが高いと言うわけではないが、それぞれが戦術を理解していてそれぞれの 役割を果たしている。無駄が少ない。
その二十分ハーフの短縮ゲームでその日のメニューは終わりだった。クールダウンに入 った高縄中の部員を見て、不破はグラウンドを背にした。


出てきた杉原は一人ではなかった。
ボランチのポジションにいた部員と並んで何か話しながら歩いてきた。校門の側で待ち 構えていた不破は、とっさに駅に向きを変えた。
当たり前の話だった。杉原には不破たちの知らない仲問や世界があって、――そしてそ ちらの関係のほうが濃密なのは。
(だから?)
不破は自問した。
(なぜ俺はそれに遠慮をしているのだ?)
気にすることなく話し掛ければいい、隣の奴は隣の奴で、俺が杉原個人に用事があるの だ。
それでも不破は振り向いて引き返すことができなかった。行動が理屈に合わない。
(サッカーを始めてみてからこういうことが多くなったな。)
他人と関り合うことで。
自分が、自分の儘ならない物だと知った。自分が自分の意志の総和でないことを。
「あ、不破くん?」
逡巡していると、先に後ろ姿をみとめられた。
「誰?」
隣の人間が杉原に聞くのが聞こえる。向き直りすたすたと歩み寄ると、面と向かって答 えた。
「不破大地だが?」
相手はその勢いに戸惑いながらも険しい表情を崩さなかった。
「あっちのほうの知り合いか?」
彼が杉原に耳打ちした。
「あっちとはどっちだ?」
聞きとがめた不破が言った。
相手は少し迷ってから、こいつさ、サッカーの東京都選抜に選ぱれててさ…と肘で杉原 をつついた。
「では間違いだ。俺は違う。」
「あ、でも不破くんも合宿に呼ぱれてて、そこで同じ部屋になって、」
杉原が急いで説明すると、彼は、ああ、例のフットサル仲間ね、とうなずいた。
「ああ、そうだが?」
さっきから訳分からず苛立つ。不破はそれを隠さなかった。相手は明らかにむっとした 。
「あの、彼は桜上水の不破くん。ゴールキーパー。こっちはウチの中学のキャプテンで 戸上くん。」
あわてて杉原が間に入って紹介した。
「ふーん…で、こいつに用があんの?」
さっきと同じく、戸上が肘で杉原の腕をつついた。
不破は黙っている。
「なあ?」
「不破くん?」
不破は剣呑な空気を漂わせ、そうだ、と答えた。
「…じゃあおれ先帰るわ。」
戸上が言った。
「ごめん。じゃあ明日ね。」
ああ、じゃあな、と戸上が手を上げて帰ろうとしたとき、不破が引き止めた。
「待て。」
「…何だよ?」
戸上が振り返った。
「ふ、不破くん?」
心配そうに杉原が声を掛けた。構わず不破は続けた。
「約束もなく杉原を尋ねたのはこっちで謝るべきは俺だろう。杉原が謝るいわれはない 。」
「…それで?」
「悪いが杉原に用がある。申し訳ないが構わないか?」
戸上は苦笑し、どうぞ、と言った。それから手を挙げて挨拶した。
「じゃあな杉原、不破君。」
「うむ。すまなかった戸上…君。」
ぎこちない不破の挨拶にさらに顔を綻ぱせて、戸上は帰っていった。
「…ああ、ぴっくりした。」
戸上の後ろ姿が遠くなって、ようやく杉原が溜め息を吐いた。
「今日は桜上水、練習休みだったの?」
不破は首を振った。それから乾いた唇を密かに湿らせた。それが緊張だということを、 不破大地は知らない。
「フットサル、」
脈絡無い、ぷつ切れの単語が口から飛ぴ出した、杉原は黙っている。
「を、やりに行く。」
「…今から?」
不思議そうに杉原が聞いた。不破は無言でうなずき、そのまま杉原を見下ろしていた。
杉原は黙って不破を見上げている。
幾度かの瞬きの間、二人はそのままでいた。
突如何も言わず、不破は杉原の腕を取って歩き始めた。
「ボクは行かないよ。」
引っ張られるようにして歩き始めた杉原がはっきり言った。
歩きながら不破は振り向いた。
「何故だ?」
「もう遅いし、それに――」
――ただ行きたくない。
不破は歩みを止めた。それから杉原の腕を離した。杉原の腕はそのまま自然に揺れて、 止まった。何の意図もなく。
「そうか。」
不破は言って駅に向かって歩き出した。
その胸の冷たいものが失望と呼ぱれることを知らない。
ただ早くにその場を離れたかった。そして家に帰りたかった。それから自分の部屋に戻 りたかった。そしてそれから…
自分はどうするのだろう?
杉原が隣を歩いていた。
「…来ないのだろう?」
「麻生十番だよね?せっかく部活休んで来てもらったんだし、そこまで送ってくよ。」
「来なくていい。」
「どうして?」
何かが沸き立ちそうになる。答えられずに不破は黙った。
「…部活を休んだことをどうして知っている?」
不破が話を変えると杉原は顔を上げ、不破の顔をじっと見た。それから不破の襟首をつ かんだ。
引き寄せると顔を埋める。
「汗の匂いがしない。」
沸き立ったならどうなるのだろう。
気化するのか。
「なんてね。部活帰りだったらこの時間にここで待てる訳ないじゃない。」
笑って答えた杉原の方を向くことができず、不破はひたすらにもと来た道をたどった。
杉原もそれきり無言で続く。
文教区、住宅地、地元商店街。擦れ違う様々な制服、暮れかかった初冬の空。
駅の入り口に風祭がいた。
ホームから上がってきたばかりらしく、辺りを見回し方向を見定めかねている。
風祭、の一言が不破の唇の手前で凍りつく。その様子で杉原も風祭に気付いた。
「カザくん?」
「あ、不破くん!杉原くん!」
「どうしたの?」
「あの…不破くんが高縄中に行ったって聞いたんで…」
風祭がちらっと不破を見上げて答えた。
戸田か、と不破は思い当たった。だが高縄中の名も杉原の名も出していなかったはずだ。
――やはり…
「…何だか気になって…来ちゃった…ごめん。」
気不味そうに風祭は俯いて謝った。
――昨日のことで何か勘付いたのだろう。
不用意だったな。
「気にするな。ただ杉原をフットサルに誘いに来ただけだ。」
そうなの?と風祭は杉原を見た。
杉原はいつもの穏やかな笑顔で、そうだよ、と答えた。
一点の曇もない笑顔で。
「カザくんも来る?」
「いいの?」
風祭の顔が輝く。
「じやあ小岩君も呼ぼう。四人のほうが楽しいよ。」
そう言って杉原はPHSを鞄から取り出した。
あ、と意外そうな顔をした風祭りに杉原は、親が持たせるんだ、と苦笑した。
「選抜に入って遠征とかが多くなったんで、心配してね…あ、そうだ。」
杉原は鞄から大学ノートを一枚破り、それをきれいに二つに切った。それにボールペン でPHSの番号を書き付けた。一枚ずつ不破と風祭りに手渡す。
「僕の番号、今日みたいなときはわざわざ訪ねて来てくれなくても、掛けてくれれぱい いから。」
――…沸き立ったらどうなるって?
「わ、ありがとー!」
風祭は喜んで受け取ると丁寧に四つ折りにして、生徒手帳に挟み込んだ。
――焼け死ぬだけだろう?
「でもいいなあ。ボクも欲しいや。」
だから、冷えたままで、落ち着いて。
「でも実際に電源入れてるのは外にいるときだけだよ。学校と家にいるときは切ってる し…」
ジリジリジリ…と静かに紙を裂く音に、風祭と杉原は話を止めそちらを見た。不破が杉 原の電話番号を二つに裂いていた。長い時間かけそれを終えると今度は二つに重ね、再ぴ 二つに裂き始めた。
「ふ、不破くん?」
風祭が狼狽えた声を出す。
「何だ?」
不破はそれを終えるとまた重ね、また裂く。
「不破くん!」
悲鳴のような、怒りのような、風祭の声。
「何だ?」
杉原は黙っている。むしろ面白いものを見るように。
強張った指を何とか離す。八つの紙片ははらはらとアスファルトに落ち、乾いた冬の微 風に散った。
「悪いが帰る。すまないが今日は三人で行ってくれ。」
二人の顔も見ず、不破は改札に真っ直ぐ歩く。
「ちょっと不破くん!」
「うん。じゃあね。」
追い掛けようとした風祭の手をつかんで制した杉原が、朗らかに空いたほうの手を振っ た。
不破は足早に歩きながら一度だけ顧みた。それを最後に振り向きもせず、ホームヘの階 段を下って行き、二人の視界から消えた。
風祭りは強く握られた左手を見てから杉原の顔を見上げた。
「あの、杉原くん。ボク、」
「ごめん。ボクも今日は帰るね。」
あっさりその手を離して杉原が言った。
「…何かあったんだね。」
意を決して風祭が聞いた。だが杉原はそれには答えず、
「不破くんのこと頼むね、カザくん……お願いだから。」
と言った。
その悲しいような言葉を耳にした瞬間、風祭は改札へ駆け出した。風のように走り去り 、不破を追い掛けた。
それを見届け、杉原は一人で帰途についた。
――…風祭、だろう?
キミが先にその名前を口にしてしまったくせに。
――そうだよ。
ポクはそう答えたくせに。
「…バカ、だなぁ。」
自嘲と悔恨が、激しく静かに苛んだ。


「不破くん!」
耳に飛ぴ込んだ声を認知し、それが風祭のものだと分かって、初めてまわりの景色が形 を成した。
桜上水か、ここは。
よく覚えていない。
戸惑った風祭。嬉しそうな…杉原。繋がれた手。駆け降りた階段。飛ぴ込んだ私鉄のド ア。そこからは何も。
「不破くん…あの…」
風祭は何と言っていいか、言いあぐねた。
「どうしてあんなこと…」
「分らん。」
不破は口にして分かった。そうだ、分からなかったのだ。
「『分らん』って…何だかそんなの不破くんらしくないよ。」
不破はうなずいた。
「異存はない、確かにオレらしくない。」
自分は何でも知っていると思っていた。自分自身のことなら。
自分のことは自分が一番知っているのが当然だと思っていた。
「何かあったんだね、杉原くんと。」
もう仄めかす気もなく、直截風祭は聞いた。
「お節介でもいい。嫌なんだ、こんなの!」
「ああ。」
不破は再ぴうなずいた。
「……だが話す気はない。断じて。」
それが頑なに言われた言葉なら、風祭は食い下がっただろう。
だが不破は微笑んでいた。風祭は言葉を無くした。
「心配しなくてもいい。そのうち何とかなる類のものだ。」
信じてもいない言葉を言って、自分を騙しても構わなかった。以前なら、軽蔑して絶対 にやらなかった行為。
「風祭。」
「何?」
「ありがとうな。」
不破は微笑んでいた。風祭は呆然とした。不破が、ではまたな、と言って去るのも、 黙って見ていた。

自分のことを自分が知っているのは当然だと思っていた。自分は、自分の輪郭をはっき りつかんでいると思っていた。他人と関わるまでは。
他人と触れ合った箇所の界面が潤んで形を変えることを知った。予期できない化学反応 が起こりうることを知った。
自分と言うものが変わり行くものだということを知った。
(14か。)
不破は杉原と風祭の歳を、あとわずかで訪れる自分の歳を思った。
Tough&Edge3
L to R ver.


「…………はい…僕です」
「……ぬ?」
「……」
「……」
「……不破くん?」
「…今、どこだ?」
「家…寝るところだったんだけど」
「家にいるときは電源を切っているのではなかったのか?」
「今日は朝からずっと入れてたよ」
「そうか…」
「うん」
「…何故オレだと?」
「ウチの家族以外、この番号知ってるとしたらカザくんと不破くんだけだから」
「…そうか」
「目の前で破り捨てられたけど」
「……」
「カザくんに聞いたの?」
「いや……記号情報ならたいてい一目見れば暗記してしまう」
「へえ、試験の時、便利だね」
「ああ」
「じゃあ、わざわざ破って見せたのは嫌がらせだったんだ?」
「…そうなるな」
「そんなにボクのこと嫌いなんだ?」
「…いや」
「そう……不破くんは今、外?…みたいだね」
「ああ、電話ボックスからだ。ウチの連中と初詣に行く途中…らしい」
「ウチ?家族の人?」
「いや、桜上水サッカー部だ。我が家の連中は毎年別に何もしない」
「へえ、おせちとかも?」
「…そう言えば乙女が開発した固形おせちを試食するな」
「乙女?」
「ウチの母親だ。後は朝九時になると祖父の大作が家族の一同揃えて「明けましておめ でとう」と一言挨拶するか。やはり昔気質なところがあるらしい」
「どうして九時?」
「ウチの時計がグリニッジ標準時に合わせてあるからだが?」
「………」
「どうした?」
「いや、なんでも。…そっか、カザくんらと一緒なんだ。仲良いいんだ、桜上水」
「…行くかどうか聞かれて「行かん」と答えたにもかかわらず、大勢で家に押し掛けら れたのだが?」
「あははは」
「どうせ連行する気なら、行くかどうか聞かず「来い」と言えばよかろうに」
「やっぱり仲良いんだね、キミたち」
「分解の危機もいくらかあったがな。ウチのチームは問題児が多い」
「不破くんが一番問題起こしそうだけど?」
「ああ、そのとおりだ」
「ははは…」
「だが、それでも…あいつが、いると…」
「……」
「不思議と…そうだな、『ベクトル』のような物が生じる…ような気がする」
「ベクトル?」
「方向と大きさを持つものをそう言う…言ってみれば長さと向きの異なる『矢印』か。
その、人それぞれが有する『矢印』が…」
「……」
「…うむ、何と言うかな…」
「――つながるんだね」
「そう…か。つながる、のか。なるほど」
「方向や位置がバラバラの物を、一つの線につなげていく…って言うか、…それって、 なんかサッカーそのものだね」
「…だからなのか?」
「何が?」
「お前が…」
「……」
「風祭を…」
「……」
――不破ー!置いてくぞー!
「(分かった、すぐ行く)…就寝時にすまなかった。正直つながると思ってなかったも のでな」
「いや、構わないよ。それより良いお年を」
「ああ。…杉原もな」
「それから誕生日、おめでとう」
「……」
「あれ?違ったっけ?」
「…14、に、なった――同い年に」
「うん」
「それを、本当は」
「…うん」
「それだけ、だったのだが」
「うん」
「もし、つながったなら」
「うん」
――ほらー不破ー!行くよー!
「…誰かボックス蹴って呼んでるよ、不破くん」
「ああ。…ではな」
「うん。じゃあ、また……」


風祭が心配そうな顔で待っていた。
(妙なところで勘がいい、相変わらず)
不破は擦れ違いに、大丈夫だ、とつぶやいた。
「…うん」
不安は不安として、それなりに風祭も安心したようだった。
「なんや不破センセー。好きな子にでも掛けとったん?」
金髪少年がニヤっと笑って近寄り、不破に耳打ちした。
しかし不破が、うむ、とうなずくと、その笑みは凍りついた。