ロリータ・コンプレックス
L to R ver.


黒い雲 北風に重く流れ続く黒い雲 暗い空 冬の空
立ち並ぶ木の匂いのする柱 渡された梁 高い高い棟木 瓦のない屋根 そ の中はいっそう暗くて その中に佇んでいると 灰色の雲の切片が一面ちらち らと白く舞ってきて その中に漆黒の

「…じゃあ今日は親御さんは来れないんですね。」
「はい。」
少女は指先でなぞった。左の頬、左目の下。もう一目には分からない消えか かった疵。でも消えてなくなることは一生ないだろうと彼女は思う。 だってあ の時 あなたが
「そうですか…なら今日はとりあえず進路希望だけ聞いといて、あとで家の 人と相談すると言うことで…」
触ると分かるのだ。なめらかな頬の手触りの中、細く一条、ざらつく。何度 なぞってみただろう。左手の人差指で、彼女は何度なぞってきただろう。もう 頬にあるのか人差指にあるのか分からない これが この感触が この疵痕が
「気になりますか。」
机の向こうの男性教師の声が少女の思惟を途切った。彼女は、また自分がい つもの仕草をしていたことに気付いた。
「いいえ。」
慌てて左手を頬から離すと、少女は否定して顔を上げた。穏やかな 陰の中にも北極星のような光を宿した、教師の眼鏡越しの両瞳と目が合った。
「…はい。」
目を伏せると、少女はやはり言い直した。
白衣を着た、物静かな物理教師。怒鳴ることはない。ただ窘めるだけ。大笑 いもしない、ただ柔らかく微笑むだけ。でも時折、今のように胸を見透すよう な目をする。
その眼差しの中、目を伏せたままもう一度触ってみる。
疵痕。勿体無いねえ 折角の器量よしなのにねえ 勿体無いねえ 縫い物を する祖母。細く光る糸、飾り箱のように色とりどりの裁縫箱。自分で縫った和 服姿は、そばで育った彼女にいつもやさしかった。
疵痕。ほっとけ大した傷じゃない そのくらいほっとけ いつも投げやり な父親。目さえ合わさず言い放った。ろくでなし あの人を追いつめて殺した
「そう。」
教師は何でもないように言って、彼女の進路希望表と成績表を取り上げ目を 通した。
生活指導室の中は薄暗く、古いインクと日焼けした紙の匂いがした。壁一面 に並んだ棚に押し込められた書類や反故の匂い。その紙束とそれらに積もった 挨が音を吸い込んで、部屋は眠っているように静かだった。彼岸過ぎて日はま すます短い。校庭からは部活に励む運動部の掛け声が聞こえる。
秋。
「うん、問題ないと思いますよ。もっと高いところ狙ったって全然大丈夫な くらいですし。…それでもやはり…」
彼女は頷いた。腰まで伸びた真っ直ぐの黒髪が揺れた。
「ま、だ、此処、を離れ、たくは、」大嫌いなあの人の眠る此処からは
「うん。」
教師は察して、たどたどしく喋る彼女に全てを言わせなかった。
「…でも、本当は、もう、こんなとこ、」
「うん。」
先生は優しい。言いたくないことを言わせなくて済ませてくれる。彼女は向 かいの教師を見た。薄暗い部屋に窓からの逆光で顔がよく見えなかった。それ でもきっといつもの穏やかな表情をしてくれているだろう。
それから彼女は教師の向こうの、半端に開けられた窓の外を見た。十月の傾 いた沈みかけの陽射しにもう、夏の名残りはない。光素の薄い、アンビェント ミユージックのような閑かな光が空に広がっている。その光が、まばらなうろ こ雲に赤紫に反射していた。
秋。
秋桜と彼岸花の花束 幼い両腕一杯に抱えるように持たされた花束 花の匂 いより消毒液の匂いがした
秋 まだ付いてなかった印

「そ、れでも、」
彼女は疵痕を強張った人差指でなぞった。ざらついた感触。もう頬にあるの か人差指にあるのか 何度も
「いつか、は…」
「うん。」
教師が応えた。
「そうだね。」
今射す光のような声だった。眼鏡の奥は見えない。
新入生の方ですか?
春。去年の春。何番目かの春風に薄紅色の白い花弁が散らされ舞っていた。
余りに白いので、葵色の制服の肩に落ちたそれは本当に雪のように溶けて消え るのではないかと彼女は思った。十五の春 十五回目の春 あなたには幾つ目 の春でしたか
秋。光線の澄み具合が似ていた。窓の外から射す光と、あの春の光と。

秋桜と彼岸花の花束 小さな腕一杯に抱きかかえて まだ付いてなかった印  まだ一つ目の印も付いてなかった

――何もせん。何もしーきらん。口ばっかし、言うぱっかし。
消毒液の匂い 歩くたび靴の下で鳴るリノリウムの床 無機質なベッド 糊 のきいた白いシーツ 着崩れたあの人の白い浴衣 ほつれた後れ毛
――人には良かーごと言うて、調子ん良かごたることばっか言うて、ばって ん自分では何もせん、何もしーきらん。見栄ばっかり張ってみせて、外では良 か顔ばして家んなかじゃ、黙っとけ、って怒鳴るしかせんくせ。
後ろで繕った長くきれいな黒髪は後れ毛まできれいに白い浴衣に流れて 横 顔は何かが抜け落ちたように清らかで
――そいで最後には泣いてみせて。泣けばどがんかなるって思うとるっちや ろうか。みたんなか。ほんとみたんなか、女々しか。
横顔しか見せす 秋桜も彼岸花も私も見ず ただ恨み言を
傲慢で強圧的な、そのくせ逆風には脆く膝を折りうずくまるしか出来ないあ の男の横暴と理不尽に黙って耐え続けた母親は、何時しか心を現つから遊離さ せると、嫁いでくる前、大学に上がる昔の少女時代の言葉で父をなじるように なった。母にはもう帰ることが許されない、母にとって母の中にしか存在しえ ない故郷の言葉で父を責め続けた。耳慣れない言葉、聞き慣れない語りは、幼 い彼女にとって呪文のように聞こえた。みたんなか ほんとみたんなか
呪文だったのだ。伏せた横顔、花にも娘にも目をくれず、俯いたまま延々と 眩かれた遠い切ない異邦の言葉、耳の奥に沈殿して母の胸を望郷で侵していた 言葉は、母を心情唖せしめていたこの国の言葉から解き放ち、溢れ迸り、代わ りに娘の言葉を呪縛した。呪縛は父親への軽蔑の共振を呼び、軽蔑は更に呪縛 を強めた。みたんなか女々しか
「ええと…それじゃあ、家の人、というかどなたか、どなたでもいいけど…良 くないか、うん、どなたか都合の良いときにでも来れる方が…」
青から赤へ暮れなずんで行く空を背景に、教師は月が地球に落下し続けてい ることを説明したときのように、慎重に言葉を選びつつ話した。
「…いらっしやるかな?」
彼女は声を出そうと喋ろうと唇を震わせた。呼気は喉を通り抜けるだけで声 帯を響かせず、奇妙な風のような音だけが微かに顫えた。あの人はもう父親じ やない あの人はもう母親じゃなくなっていた
彼女は喋るのを諦め、強ばった首を頷かせた。もう父親じゃなくても
「あ、あ、うん。そう…」
教師は少し困ったように頷き、それから謝ろうとしたがそれは止めた。ただ 軽く頷きながら目を伏せ、黙って眼鏡のブリッジを右手の中指で押し上げた。
「そしたらですね、どなたか都合の良いときに、」
「それ、は、あの、」
「あ、無理だったら別にですね…うん、木下君の成績でしたらまず問題ない わけですし、」
「ち、違、」
慌てて彼女は首を振った。
「それ、」
彼女は不意に言葉を切った。何かが彼女を躊躇わせていた。教師は黙って待 った。促しも急かしもせず、ただ黙って待った。背にあたる秋の日の温もりに 居眠りするように、頬杖をついて目を閉じていた。
「その、め、がね。」
「眼鏡?」
ようやく彼女が続けると、教師は自分の眼鏡を指した。
「度、が…」
「ああ、うん。」
教師は顔を柔らかく綻ぱせ、ふふ、と笑った。
「そう。度が入ってないんですよ。伊達眼鏡。何となく『先生』っぽく見え るでしよう。」
彼女もつられるように少し笑った。ぎこちなかったが、見るものをほっとさ せるような笑顔だった。教師も安堵したように軽い吐息をついた。
「でもよく分かりましたね。女の人って、本当細かいとこよく見てる。」
「だってそれは、」
彼女らしくない、言い切るような口調だった。黒い雲 北風に重く流れ続く 黒い雲 暗い空 冬の空 教師は不意を突かれて見直した。視線が合った、彼 女は怯んだように俯いて、肩を強ばらせた。…その中はいっそう暗くて その 中に佇んでいると 灰色の雲の雪辺が一面ちらちらと白く舞ってきて その中 に漆黒の
「…あの時に…」
かき消えそうな声が震えていた。
立ち並ぶ木の匂いのする柱 渡された梁 高い高い棟木 瓦のない屋根 血の赤 火の赤 滴り落ちる赤 舞い上がる赤
かの男は父親でもなくなり夫でもなくなった。いや、夫を止めたときに父親 であることも放棄したのだ。彼は妻だった女性を病院から無理矢理引き取り、 離れに置いた。自分への恨み言を星語りのように眩く女を、ただ世問から隔離 したいが為に。
しかし家に帰った彼女の母は、もう夫だった男について何も喋ることはなか った。まだ秋の名残りのあるうちは障子を少し開け、布団の中から落ちゆく欅 の紅葉を眺め、柊の枝の芽吹くのを見守った。冬になると閉め切られ火鉢の置 かれた八畳の和室に、娘が見舞いに来るたび、呪文のような、もう戻ることの なかった故郷の言葉で可愛がった。
――かわいかねえ。若葉ちゃんはかわいかねえ。お人形さんのごたるもん。
彼女の母は彼女を引き寄せ、娘の髪を椀いた。肩の上で切り揃えられた、真 っ直ぐな黒髪を。
――お目々もぱっちりしとるし黒目も大きかもんねえ。
母は若葉を見ていたが、見ていたのは若葉ではなく違った道を歩んだ、有り 得べきはずの自分だった。
――そいに白かねえ。雪のごたる。ほんとすべすべしたほっぺたしとる。
まだ一つ目の印の付いていない左頬を摩る。暇僅のない、なめらかな頬。そ れを、つうっと母の指がなぞる。熱い指 身を焼く暗い残り火に焦がされたあ の人の熱い指 暮れの寒々しい空気にさらされ冴えた金属のように冷め切った 頬にその指は火傷の痕をつけそうだった。母の熱 引くことのなかった熱は若 葉の母の身体を内側から焼きつくし、皮膚から溢れていた。指先から最早人の ものではない熱が伝わり、冷たい頬に命の最後の熾き火の感触を焼き付けた。
印は本当はこのとき付いたのではないかと思う。彼女はそう錯覚する。確信の ような錯覚。だってこのときのほうがすっと刻みつけられるような感触だった  刃が頬に入り込んだときよりもずっと
――林檎…
そしてその日、真赤な林檎を左手に、果物ナイフを右手に彼女の母は微笑ん でいた。
――好いとるやろ、林檎。今、むいてやるけんね。
布団から上半身を起こした母は肩に綿入れを掛け、手もとのリンゴの皮をナ イフで薄く薄く剥ぐように、丁寧にむいていった。隅に置かれた、古く煤けて もなおひび一つない火鉢は、底冷えする八畳の和室を少しも暖めなかった。若 葉は布団の脇で冷えゆく身体を身じろぎさせず立っていた、ただ母の手もとを 見つめていた。静かに、さり、さり、と微かな音を立てて林檎の赤い赤い皮が 剥ぎとられてゆく。
ほら、どうぞ。
やさしく笑った母は、八つに割った林檎の一つを若葉に差し出した。右手で 、果物ナイフを持った右手で若葉の口元に、そっと差し出した。
それを手に取らず、口の方を持っていったのは若葉だった。しんと冷えた部 屋の空気の中で あの人の額には熱で汗がにじんでいた
しゃり、と林檎に歯を立てた音がした。咀嚼しながら顔を引くと、若葉の頬 を、水に似たなにかが伝う感触がした。左手の人差指でそっとぬぐう。ぬる い液体が指を赤く染める。拭っても拭っても、後から後からその生温かい赤は 流れ続けた。左手の掌が余地なく赤く染まっても、まだ血は滴り続けた。
痛くも熱くもなかった。ただ零れ続く血に、祖母の縫ってくれた丹前の左袖 が黒く汚れるのが気掛かりだった。落ちるだろうか?右手で左袖を押さえ、 左手で傷口を押さえて部屋を出て行く。去りしなに彼女が見た母は、寂しそう に微笑んでいた。見捨てるように障子を閉ざした。
寒さの染み込んだ冷たい板張りの縁側を回って、素足で母屋に向かって歩い ている間も生温い赤は止まらず左手の掌から溢れ零れ続けた。祖母は初め、自 分の部屋に静かに入ってきて黙って立ちつくす孫娘の傷に気付かなかった。余 りに静かだったが孫娘はいつでもそうだったので違和を感じなかったのだ。た だ、いつもは近くに来て腰を下ろす孫娘がいつまでたっても襖の傍に立ったま までいたので、こちらに来てストーブに当たるように言おうと縫い物から顔を 上げたとき、祖母は若葉の左頬から首にかけて、左の掌から腕にかけて、赤く 染まっているのを見た。
その尋常の無さに驚いた祖母は、孫娘の硬直して、凍りついたように左頬に 貼り付いた左手を引き剥がすと、傷を見て、そこから流れ出る真赤な血に仰天 した。すぐさま手近にあった布切れで傷口を拭い、救急箱からオキシフルを取 り出し吹きつけた。そのとき初めて彼女は痛みを感じた。
祖母はそのあと、ガーゼを当て包帯で固定すると知り合いの外科医に連れて いこうとした。彼女はガーゼと包帯を濡らした血がにじみ出るそこを左手で押 さえたまま、右手を祖母に引かれて、軒先に出た。
日の最も短い、暮れかかった冬至の濃紺の空に、赤い炎が熱く映えていた。
木が燃えるときの胸騒がす匂いと火がはぜる音がした。師走の寒風に煽られて 炎は妖しく揺らめき、離れの障子を、襖を、畳を、屋根を次々にその灼光と焦 熱の糧にしていった。血の赤 火の赤 滴り落ちる赤 舞い上がる赤
慌てふためいた祖母は孫娘の右手を離すと表に飛び出てなにか叫んでいた。
その間も炎は燃え広がり続け離れの資材を火に陥としてゆき、灼熱の赤や朱や 茜は熱に浮かされたように激しく舞いながら、水底に沈んだように青く冷たく 暮れなずんだ風景を橙に照らし、火の粉はネオンの欠片のように瞬きながら辺 りに振り撤き散らされた。その幻惑的な光景に魅入られ、若葉は落魄したよう に佇んでそれを見入った。血はすでにガーゼと包帯を浸し切って、しとしとと 左腕を伝わっていた。まだ流れ続けていた赤 燃え続けた赤 今でもはっきり と憶えてるのは
やがてすぐ、赤い回転灯を点した赤い車が何台もサイレンをうならせやって きて放水を始めた。離れを喰い尽くし美しく燃え盛り、赤い幻想を現出してい た炎は、余りに呆気なく鎮火した。母屋に飛び火しなかったが離れは全焼し黒 く焼け焦げた柱だけ、残った。
放心状態の祖母が我に返ったのは、消防員に頬を真赤に染めた幼女のことを 尋ねられてからだった。若葉の左腕は肘まで真赤に染まり、肘先から血がした たり落ちていた。祖母は再び慌てて孫娘の右手をとると、上の空でなにか眩き ながらもその手を引っ張って病院へとつれていった。手を引かれるまま暮色蒼 然の寒空の下黙って歩き続けた若葉は、今し方見たぱかりの、目蓋の裏で熱く 舞い狂う赤い残像を思い浮かべていた。手の中の赤は初め温く、すぐに冷たく なりながら手から腕へと伝っていった。手の中でぬめっていた黒みを帯びた鉄 くさい赤 目をとじた暗闇の中で熱くまばゆく燃え続けた赤 今でもはっきり と憶えてるのは きっと
「あの時?」
教師は心配そうに若葉を見た。
目蓋にちらつく赤に目眩を覚え、若葉は熱を感じた。あの日の母のように。
熱い指 身を焼く暗い残り火に焦がされたあの人の熱い指 疵が熱く疹いた。 しんと冷えた部屋の空気の中で あの人の額には熱で汗がにじんでいた
二針で済んだ。
ほっとけ 大した傷じゃあ無い ほっとけ 父は気にも止めなかった。祖母 だけが疵痕を惜しんだ。勿体無いねえ 折角の器量よしなのにねえ 勿体無い ねえ 白く肌理細やかな頬に付いた一条。指先を滑らせてゆくとなめらかな手 触りの中、細く削り取られた痕がある。そこだけがざらついていた。彼女は幾 度もそれをなぞった。それが癖になったのは気に病んだからではない。そのぎ ざぎざとした摩擦が好きだったのだ。その疵痕が彼女を、母とそして父とから 隔てる印に思えていたからだった。
――似てきたな。
何年も娘の疵にも、娘自身にも無関心だった父が不意に彼女に目をくれ眩い たとき、だから娘はざわつくような動揺を覚えた。そんなはずはない そんな はずはない そんなはすはない
あれに似てきた。
その死にも無関心だった自分の妻だった女のことを、父は娘の知る限り初め て口にした。その女に娘が似てきたと言った。それだけ言い捨てると黙って去 っていった。取り残された娘は呆然と立ち尽くした後、肩を過ぎ背中まで伸び た長い黒髪をなびかせ走った。そんなはずはない そんなはずはない そんな はずはない 焼け跡に建てられた自室に駆け込み、祖母から譲り受けた鏡台を 開いて自分の顔を、右頬に映った左頬の疵を凝視した。あの人の顔を思い出し てみようとするが、そんなはずは そんなはずは そんなはずは 焦りと怖れ がそれを阻んだ。しばらく息を整えて心を静めると、林檎 ナイフ 一つずつ 丁寧に、布団 綿入れ 火鉢 記憶を辿った。後ろで結われた黒くきれいな長 い髪 流れる後れ毛 残像が錯綜しながら流れる。着崩れた浴衣 白い浴衣  白いシーツ 消毒液の匂い
秋桜 彼岸花

好きだった花。そう花が
花が好きな人だった

まだ現し世に心を残していた頃、花が好きな人だった。母は娘の手を引いて いる。あとなにか 母は笑っている。なにか忘れてる?母は本当に楽しそう に幼い娘に笑顔を向けている。そうなにか忘れてる 幼い娘の手を引いて、 幼い娘の歩みに合わせてゆっくりと歩みながら、娘の問いに煩わしがることな く一つ一つ答えてやっている。あれは?月見草。あの白いのは?銀木犀、いい匂いがするでしょ。
べージュのパンツを穿いて、白いコットンのワイシヤツを着て、襟がきれい に折られていて、手を引く娘を何度も見下ろして笑いかけながら私の手を引い て 私の右手を左手で引いて散歩している
彼女は何度も見ていたはずだった。
あの人の左頬にも、彼女が鏡の中で触れているものと同じものがそこにあっ たことを。彼女がまだずっと幼かった頃、あの人が花を愛でていた頃、明るい 笑みを持っていた頃、喜びを望んでいた頃、自分と娘の幸せを願っていた頃、ま だあの人が彼女の母親だった頃、若葉はずっと見ていたはずだった。
あの人の左頬にもあった疵痕。鏡の中の彼女と同じもの。ちがう 彼女と同 じところに、ちがう 同じものがちがう 同じようにちがうちがうちがう
彼女はそっと疵痕に触れ、同じようにそっと触れられたことを思い出した。
そう ちがう これは二つ目の印なのだから
「先生、は、」
「はい?」
「憶え、て、ます、か?」
秋。日祁暮れかかって空を青から赤に、赤から藍に染めていった。真向かい から射す夕紅の残光がガラス窓を通って彼女の瞳の虹彩を透かし、その奥の赤 を浮きだたせた。
「あの時、に、」
彼女は言葉続けようとし唇を動かしたが諦め、縄るように瞳を上げた。教師 は彼女の懸命なその眼差しを穏やかな表情で受けとめ、それからうたた寝をす るように頬杖を付いて記憶の風景を呼び起こすように目を伏せた。
「うん。」
彼は微睡みながら寝言を口にするように眩いた。
「風が強かったね。」
春。去年の春。何番目かの春風に薄紅色の白い花弁が散らされ舞っていた。
余りに白いので、葵色の制服の肩に落ちたそれは本当に雪のように溶けて消え るのではないかと彼女は思った。十五の春 十五回目の春 あなたには幾つ目 の春でしたか
「こっちを怖い目で睨んでいる新入生がいて、」
教師は目を伏せたまま微笑んだ。
「少しどぎまぎしてるとプリントの束、一枚風に飛んで慌ててたら…拾って くれたのが木下さんでしたよね。」
「別、に…睨んでた、わけ、じや、」
「うん…だけど、」
教師は困ったように苦笑しながら言い掛けたが、彼女がそっと、頬の疵痕に 左手の人差指で触れると、その仕草に口を嘆噤んだ。
「これ、は」
彼女は何度か唇を震わせると、言った。教師は微かな音に耳を澄ますように 目を閉じ、呼吸も静かに無言で続きを待っていた。ようやく彼女は乾いた喉か ら、十五の春 十五回目の春 あなたには幾つ目の春でしたか 掠れた声をさ さめかせた。
「気に、なり、ません、でした、か。」
「なりましたよ。」
教師は即答した。夢言のように、目を瞑ったまま口から零した。
「それで分かったんです。」
その答えで初めて秋の日に透きとおる彼女の瞳に、歓びが細波のように広が った。
春。十五回目の春。小さな幾つもの花弁たちは無数に重なって、枝を広げた 樹を被い尽くし、白い夢のように浮かび上がっていた。
空は晴れていて風が強かった。雲たちは切れ切れになりながら青い空を早足 で流れていった。地上にもその風は時を置きながら吹きつけ、その度に桜は幹 を揺すられ枝を撓らせ、数え切れない薄紅の小さな花びらを視界一面にちりば めていた。
白い花びらまじりの風の中に、真白い白衣をまとわり付かせ彼が立っていた 。長い黒髪をなびかせる彼女の視線に気付くと、ちらちらと舞い散る花片ごし に彼女を見た。どぎまぎなんかしてなかった 紙束を抱え、落ち着いてゆっく り二度瞬きして、穏やかな目で彼女の瞳を見つめ返していた。花びらは次から 次へと尽きることなく舞い散っていた。舞い散っては降り初めた雪のようには だらに積もっていった薄紅色の白い花びら。舞い散る花びらのように粉雪が降 りそそぎ 点々と地面を漂白しては溶けていった
黒い雲 北風に重く流れ続く黒い雲 暗い空 冬の空 立ち並ぶ木の匂いのする柱 渡された梁 高い高い棟木 瓦のない屋根 そ の中はいっそう暗くて その中に佇んでいると 灰色の雲の切片が 一面ちらち らと白く舞ってきた 舞い散る花びらのように粉雪が降りそそぎ 点々と地面 を漂白しては溶けていった そのちらつく白い小さな雪片ごしに漆黒のひとが 立っていた 黒い詰襟の学生服 黒い靴 そして黒い髪 暗灰色の空の下でそ れらはつやもなく 本当に影絵のように真っ黒に見えた

冬。焼け跡は何の惜しみも感傷もなく、躊躇無く取り壊され運び去られ更地 になり、新しく基礎が打たれ土台が築かれ、柱が立ち梁が渡され、筋交いが斜 に掛けられ棟が上げられた。
冬。髪は肩に触れかかっていた。抜糸も済んで包帯もとれ、傷は白い一条の 疵痕になりつつあった。
医者は左頬と左腕を血にまみれさせながらも無言の少女を気丈な子だと言っ たが、そのあと傷口を縫う際にも抜糸の際にも、痛みに顔をしかめながらも唇 を噛み締め泣き声一つ上げない少女を、次第に不憫に思うようになった。医者 は別の病院、外科ではなく心療科の病院を紹介した。そこで初めて周りは、少 女が言葉を無くしていることに気付いた。少女はたまに呪文のような意味の無 い言葉をおもうとるちゃろかみたんなかみたんなかめめしか眩くことがあった が、それ以外は口を嘆んだまま首を縦と横に振ることで意志を表わすだけだっ た。
祖母はそのことを気に病んだが、父は気にも止めなかった。ほっとけ その くらい大したことない ほっとけ 元々無口な子であったため、他人には、少 女が言葉を喋らないことに気が付かない者もいた。少女はひがな一日家に籠も って、縫い物をする祖母の傍らで一人過ごした。祖母の作ってくれた人形や飾 り紐で遊んだ。音読の前に黙読を憶えた。発話することなく拙くも文字を書け るようになった。
たまに表に出ても、一人で敷地から出ることはなかった。自分の母親だった 人が己を茶毘に付した場所、今は木の香りのまだ新しい柱が林立しカンナくず が散らばり、まだ葺いていない剥き出しの屋根が冬の灰色の光を遮り一層暗く する、建築途中の組まれた木材の中にいることを好んだ。祖母の編んでくれた 幅の広めの大きなマフラーを、顔を埋めるように幾重にも巻いて、祖母の縫っ た丹前を、あの時着ていた丹前を羽織って外に出、基礎のコンクリートをなん とか踏み越し、間仕切土台に小さな腰を下ろして何本もの柱と梁に囲まれ、何 本もの木材に区切られた冬の空を見た。枯れた欅の枝を見た。柊のかたい葉の 刺を見た、たまにマフラーを鼻の下までおろすと、丹前の左袖の匂いをかいだ 。洗っても落ち切れなかった黒い血の跡に鼻を押し当てた。鉄の匂いがした。 その匂いに酔うと丹前の袖から顔を離し、目を閉じ、辺りに充満する木の香り をかいだ。目を閉じ、冷たい冬の空気をかいだ。目を閉じ、雪の前触れの冷た く湿った風をかいだ。冬。如月の終わり。
春が来れば学校へ行かなくてはならなかった。喋らなかったが、ごく賢い子 だった、学区の小学校は普通に彼女を受け入れた。祖母は心配したが、父は気 にも止めなかった。
春が来ればもう、一人ではいられなかった。
春が来れば、
桜が咲いて、散る頃になれば。
風が止んだ。少女は目を開いた。柱と梁の縦横する向こう、見渡す限り一面 に雪が静かに舞っていた。音もなく地に降りそそいでいた。空の端から端まで 蓋った鈍色の厚く暗い雲は尽きることなく次から次へと世界中にはかない雪片 を降り散らせ、雪片は屋根に被われていないもの全てに降りそそいでは溶けて いった。枯れた欅の枝に降りそそいでは溶けていった。柊のかたい葉に降りそ そいでは溶けていった。黒い詰襟の学生服の肩に降りそそいでは溶けていった 。黒い靴に降りそそいでは溶けていった。黒い髪に降りそそいだ雪だけは少し の間積もり氷結し、透きとおってしばらく存えたあと、やはり溶けて露になっ た。
いつからか、いつの間にか少年はそこにいた。辺り一面を雪の飛片がゆっく りと舞い降り続け、世界から色と形と音とをなくしている中、くっきりと浮か び上がるように黒く彼は立っていた。頭からつま先まで、白い面を除いて黒に つつまれてそこにいた。
屋根の下に居た若葉を見ていた。待ってる 若葉は直覚した。冷たい雪の中 、ポケツトに両手を突っ込んで、彼はただ黙って俯きがちに立っていただけな のに。
若葉は間仕切土台から軽い腰を上げた。一歩一歩彼に近づいた。立ち並ぶ柱 たちの間を抜け、暗い屋根の下から白い雪と灰色の光の外へと歩み出した。
完成するとささやかな玄関になるはずの基礎を踏み越えると、若葉にも白い 粉雪が降りつけた。分厚い幾重にも巻かれたマフラーの中に鼻と喉を刺す寒気 が染み込んできた。
彼は白い右手をポケットから出すと、若葉の頭に降りつもった白い雪粉を素 っ気無く、しかし乱暴にでもなく払った。少し強い風が髪を撫でるような具合 だった。
少年は右手をポケットに戻して、黙って若葉を見下ろした。若葉もじっと少 年を見上げた。頭からつま先まで漆黒だった。顔だけが仄暗い空の下、白かっ た。白い顔の中、眉と庭毛と瞳だけが黒かった。小さな光もちらつかない、黒 々とした瞳だった。
彼はまたポケットから右手を出すと、若葉の頭に降りつもった雪粉を素っ気 無く払った。雪粉がぱっと散った。それから再び右手をポケットに戻そうとし た、途中でその手を止めた。あ来た それから今降っている雪のように静か にその手を若葉の左頬に近づけた。来たんだ 右手が、白い頬に残った更に白 い一条に触れた。触れる前からその手の冷たさが、若葉にはわかっていた。触 れるか触れないか、そんな触れ方だった。少年は条の端からもう一つの端まで なぞった。それから、来たんだ
――かがみ込んで疵に口づけた。
触れたか触れなかったか、そんな口づけだった。浄められたのか汚されたの か 唇の感触より、外気より少しだけ温かい吐息の感触のほうが若葉の頬に残 った。寿がれたのか呪われたのか 儀式のようにそれをすますと、少年はもう 一度若葉の頭の雪粉を右手で払い、今度はポケツトに戻した。解かれたのか囚 われたのか それから一言も発しないまま背を向け隙無く黒い後ろ姿を見せ、 そこにはだらに雪が降り、視界一面に舞う雪片の中に少年の姿は消えていった 。舞い散る花びらのように粉雪は降りそそぎ、点々と地面を漂白しては溶けて いった。
舞い散る花びらのように粉雪は降りそそぎ 点々と地面を漂白しては溶けて いった 舞い散っては降り初めた雪のようにはだらに積もっていった薄紅色の 白い花びら
舞い散っては降り初めた雪のようにはだらに積もっていった薄紅色の白い花 びら。春の激しい風が幹ごと枝木を揺するたび、無尽に夥しい薄紅の花片をま き散らした白い夢幻のような桜。高校の敷地の隅、表からも校庭からも旧い木 造校舎に隔てられ、用務員以外誰も通ることのない、はげかかった芝の生い茂る空白 地に植わった二本の桜の巨木は、そこにいる二人に溶けない薄紅の雪を降らせ 続けた。それらはただ風に飛び去った。体育館での入学式が終わり、生徒たち がそれぞれの教室へと渡り廊下を通っていくざわめきが遠くに聞こえた。
教師の白衣が、強い風で彼の身体にまとわり付いていた。少女の髪、肩を過 ぎ肩岬骨を過ぎ腰に届きかけた黒く長い髪は、強風のたび激しくなびいていた 。花びらたちは一片一片黒髪に絡みつき、そして風に流れた。教師はゆっくり 目を閉じ、開いて、花びら交じりの風に晒される彼女を見ていた。少女は白衣 に張り付いた、それよりほんの少しだけ紅い花片を見ていた。
やがてまた風が吹き、教師の片手に抱えていた紙束の一枚が飛んだ。ざら紙 に刷られたケプラーの法則ははためきながら宙を滑り、薄紅の花びらがはだら に積もる芝に落ちた。教師は諦めたように苦笑し、溜め息をつくと拾おうと足 を踏み出したが、少女のほうが早かった。プリーツの付いたスカートの裾を押 さえかがみ込んで、少女はケプラーを拾い上げた。教師は少し震えながら差し 出されたその紙を手に取ると元の紙束に重ね直した。
――新入生の方ですか?
彼女は唾を飲み込むと、は、い、と震える声で答えた。
――ありがとう
彼女は強ばる肺を収縮させ、どう、いたし、まして、とやっと掠れ声で答え た。
教師は少しだけ笑うように口を綻ばすと、では、と言って踵を返して校舎の ほうに去っていった。
また強い風が吹き、桜が花びらを夥しくまき散らした。ちらつく花片の中の 後ろ姿を見て、少女は悟った。
「そう、あの時、思った、と、いう、か…」
教師は未だ夢の中に居るように頬杖をついて目を伏せていた。良い夢なのか 、口元がうっすらと幸せそうに微笑んでいた。
「…と、いう、か…」
彼女は胸から絞り出すように言った。
「分かっ、た、ん、です。」
それがずっとしまいこんでいた言葉だった。去年の春から。十年前から。あ の日半分壊れた堰を押し流す、最後の言葉だった。
「分かったんです。」
胸からこぼれ落ちるままに言葉が出てきた。こぼれ落ちる衝動に身を委ねえ た。彼女は指導室の錆びたパイプ椅子に足を乗せると、机の上に膝を付いた。
そのまま流れるように机の上に身を乗り出し、左手を教師の目前に付いた。腰 まで伸びた黒い髪が左肩から流れ落ちた。教師は頬杖を外し顔を上げた。目の 前にある少女の顔を見上げた。少女は右手で彼の眼鏡のつるを掴むと、そっと 外した。そこに幼日に見た少年の面影を見いだした。
「貴方だったんですね。」
素顔の教師はいつものような穏やかで柔和な顔ではなかった。あの日と同じ く、物憂く、素っ気無い表情をしていた。彼女の背に歓びのざわめきが走った 。
「あの日の人は、」
彼女は短くない日々を経てようやく手の届くところに辿り着いた、手を伸ば せば触れられるところに辿り着いた二人目の刻印者を前にして、温い狂暴な感 情に身を震わせた。
「あの日の人は先生、貴方だったんですね。」
彼はあの日と変わらない眼差しで彼女を見つめた。今にも右手で、少し強い 風のように若葉の頭の雪粉を払いそうだった。
だが彼はそうせず、代わりに右手を静かに伸ばした。右手はその間の空をゆ っくり横切り、若葉の疵痕に辿り着くと、それを端からもう一つの端へとなぞ った。
指はやはり冷たかった。若葉はその冷たさに眩むような快楽を覚えた。