L to R ver. ナオエさん


つまようじみたいに小さくて細いドライバーを、少し関節が目立つやせた人差指と中指と 親指とで器用にくるくる回し眼鏡のネジを締める。一重の瞼を半分閉じて目を細め、ドライバーの先を見つめている。そうしていると意外と睫毛が長いことに気付く。
僕はカウンターの内側の端末のディスプレイの前に座って、横目でそれをこっそり見てい る。
僕の日課。
ネジを締め終えるとナオエさんは眼鏡を掛けた。ちょうど女子生徒が本を持って貸し出し にカウンターにやって来たから。
おもに、『女の子が』読む、本。
僕はタイトルも内容も知っているけど、知らない振りして振り向きもしないでディスプレ イに向かってキーボードを叩く。ナオエさんは黙って彼女の貸し出しカードと本にバーコードの読み取りを掛け、ちゃんと読み取れたのかを端末ディスプレイで確認する。それからいつもの人を安心させる笑みで「28日にまでに返却してくださいね」と言ってカードを返し本を渡した。女子生徒はほっとした顔で本を受け取り素早く鞄にしまうと、図書棟を出ていった。
「今日、借りてこうと思ってたのに」
僕が言うとナオエさんは、駄目ですよ、と言った。
「図書部員は後回しです」
「入荷した時点でさっさと借りてれば良かった」
「それは職権乱用ですよ」
穏やかにたしなめられた。
放課後の図書棟白奥のほうに何人か参考書を広げて勉強をしている。それから本を借りに 来た生徒数名。いたってのんびり。
ナオエさんはもう一度眼鏡を外すとブリッジをトントンと軽く叩いて「フレームレスだか らですかねえ」と言った。
「やっぱりネジの部分が弱いですか?」
僕が振り向いて聞くと、ナオエさんは、「うーん、私のだけかもしんないです」と答えた。
「フレーム付きのにするか、いっそコンタクトにしましょうか」
「駄目」
即答してしまった。
「どうして?」
聞かないでください。
「その眼鏡似合ってますよ」
そうですかねえ、とナオエさんは眼鏡を見つめてつぶやいた。
「コンタクト、駄目ですか?」
「駄目です」
「してみないと分からないじゃないですか」
「分かります」
「黒川さん、私の裸眼見たことないじゃないですか」
「今見てます」
しばらく沈黙して、あ、そっか、とナオエさんがつぶやいた。
ナオエさんはちょっと抜けている人です。
そして僕は、ちょっと抜けたナオエさんが真面目な顔して眼鏡のネジを締めているのを見 るのが、好きです。関節の少し目立つやせた指で器用にネジを締めるのを見るのが、わずかに伏せた目の意外に長い睫毛を見るのが、好きです。
だから、ナオエさんに眼鏡を変えられたり、あまつさえコンタクトにされては、 困る。

放課後ホームルームが終わって図書棟に来ると、ナオエさんは大低ディスプレイに向い、 慣れない手つきでキーボードを打っている。キーを打つのが遅いわけではなく、打ち間違い が多いわけでもない。ただ、頭の中で組み立てた文字列とタイピングの間に滑らかな連続性 がいつまでたっても生まれないのだ。いつでもどこかズレがある。しょっちゅう譜面と鍵盤を交互に見な がらでないと弾けないピアニストのように。
多分この人の指はハイテクを操作するようにできてないのだと思う。
「ああ、黒川さん、こんにちは」
僕の姿をみとめるとナオエさんはいそいそと立ち上がり、その席を僕に譲って自分はカウ ンターの案内係兼貸し出し口兼、入架リクエスト受付兼雑談窓口に座る。そして眼鏡を外す と緩んだブリツジをカタカタ鳴らす。それからキーホルダーから針金のようなドライバーを 外し、眼鏡のネジを締め始める。
僕はブラインドタッチでキーを叩きながらこっそりその様子を眺める。
関節の浮いた細い指が、器用にネジを締めるのを。細められた一重瞼の、意外と長い睫毛 を。
「黒川さんは機械に強いですね」
だから突然ナオエさんがそう言ったとき、僕は一瞬キーを打つ指が跳ねた。見てないよう に、こっそり見てるのがばれてるのかと思った。
「機械って?」打ち損ねた文字を、バックボタンで修正。
「パソコンです」
「今時、パソコンを扱うくらいで『機械に強い』って言う人はいませんよ。中をこじ開け てメモリやハードディスクを取り替えたりするならともかく」
「前々から思ってたんですけど」
「はい?」
「メモリとハードディスクって、どう違うんですか?」
僕は十分法に基づいて、「548辺りの棚を見てください」と言うしかなかった。
うむむむむ。ナオエさんは眼鏡を掛けると捻った。それから本当に立ち上がって500番 代の棚から『良く分かるコンピュータの仕組み』という本を持ってきて読み始めた。
本当に気付いてないのかな。
だらだらと新しい本と廃棄本の入れ替えを、メモリ経由でハードディスクに入力しつつ僕 は考えた。
本当はナオエさんは気付いてる様な気がする。
僕が、眼鏡のネジを締めるナオエさんをこっそり見ているのを。
それにナオエさんが気付いているような気がしていることまで。
うーん…。
「はい」
ナオエさんが『良く分かるコンピュータの仕組み』を閉じて前を向いた。
カウンターに図書カードと、井上靖『氷壁』。
ナオエさんは両方のバーコードにぴっぴっと読み取りを当てる。
「アレ?前のが返却期間過ぎてますよ」
「え、嘘」
借りようとした女子生徒がカウンターに身を乗り出してディスプレイをのぞく。ナオエさ んは見やすいようにディスプレイを回した。
「あ、本当だ」
女子生徒はちぇ、と言って『氷壁』をもとの棚に戻そうとした。返却期間が過ぎても本を 返していない生徒には貸し出し禁止になっているのだ。一応。
「永井さん」
ナオエさんが呼び止めた。永井洋子さんは『氷壁』を手にして振り返った。そしてナオエ さんの悪戯っぽい微笑みの意味を察した。
「ヘヘヘ」
バツが悪そうに笑うと永井さんは戻ってきて、バーコードを表にして本を差し出した。ナ オエさんがこちらをちらりと見る。僕は耳を塞いで「何も聞いてない」というジェスチャー をした。
「前の本、早めに返却してくださいね」
「明日持ってくるっす」
永井さんは親指を立ててそう言うと、待っててねー、とナオエさんに手を振った。お待ち してますよ、とナオエさんも応じて手を振った。
「ミラン・クンデラ『冗談』…」
「あ、駄目ですよ!人の履歴のぞいちゃ!」
僕がぼそ、っとつぶやくと珍しくナオエさんが怒った。
「いや、覚えてるだけ。その前が松本清張『或る小倉日記』、その前が萩原朔太郎詩集…」
僕が永井洋子の貸し出し本のタイトルを暗唱してみせると、ナオエさんはちょっとびっく りして、それから口を尖らせた。
「悪趣味ですねえ」
「いや、永井さん、未貸し出し本を良く借りてくから」
あ、なるほど、とつぶやいてからナオエさんは今更ながら気がついたように僕に耳打ちし た。
「もしかしてああいう方が御趣味なんですか、図書部長さんは?」
「いいえ」
やっぱり気付かれてるわけないや。
僕は即答してパソコンを終了させ、図書作業室で新しい本の開き癖をつけにかかった。

僕は図書部員で、図書委員ではありません。
それはこの高校には委員会活動全般がないから。その代わり生徒全員が何かの部に籍を置いとかなくてはいけないけれども。だから運動部に入って毎日五キロも走ったりしたくない しそもそも放課後まで学校になんか残ってたくない人達は、適当に放送部や保健部や美化部 や広報部の幽霊部員になって、寄り道しないでお家に帰るのだった。たぶん。
図書部はというと例外で、毎日ナオエさんの監督のもと厳しい読書訓練と配架知識習得を はじめとし、各種特訓を行ない図書甲子園出場を目指してがんばっているのだ。
もちろん嘘です。
図書部も例外ではなくほとんどが幽霊部員で、実質六人程度で日替りにやってます。毎日図書棟――僕が 入学する前の年の大規模な校舎改築から取り残された木造校舎――に来るのは、僕ともう一 人、桧葉さんという一年生しかいない。しかも桧葉さんは別に仕事をするわけでなく、黙っ て奥の図書準備室で本を読んでいるだけだ。それも放課後や休み時間だけでなくて、授業中 も気が向いたら来るらしい。この間も自習になった英語の時間にやってきたら、彼女がいて 本を読んでいた。
「桧葉さんも自習かなんかなんですか?」
「いいやあ」
本から目を離さず桧葉さんは間延びした声で答えた。
「みなさんは外で運動場走ってる」
外からは確かに運動場のざわめきが聞こえた。
「桧葉さんは?」
「体調悪いって言ったら見学だって」
「行かなくていいんですか?」
「人が走るの見てたからって自分が体力つくわけじゃないのにねえ、そう思わないですか、 黒川先輩」
「…もっともなご意見ですね」
桧葉さんは本を読みながら専用のマグカップに口をつけた。
「ああ!」
と思わず声を上げると初めて桧葉さんはびっくりしたように本から顔を上げた。
「な、何ですか?」
「それ図書室の蔵書でしょ!飲み食いしながら読むのやめてよ、染みとかついたらどうす んですか!」
しばらく桧葉さんはカップの縁をくわえたまま、じっと黙って僕のほうを見ていた。
「黒川さんって恋人いないでしょ?」
「余計なお世話です」
僕は念力で桧葉さんのマグカップを本から遠ざけようとしたけれど叶わなかった。ただ念 を込めた僕の目つきが嫌だったのか、桧葉さんはカップを自分で机の上に置いた。
「あれ?お二人ともいたんですか」
閉架書庫から出てきたナオエさんがのんびりと言った。
「でしたらこっちの整理を少し手伝ってもらえ…」
とまで言って唐突に「ああ!」と声を上げた。今度は僕もびっくりした。
「何ですか?」
僕が聞くとナオエさんは桧葉さんのマグカップを例の骨の浮いた人差指で強く指した。
「読書中の飲食は禁止です!」
桧葉さんは嫌いなピーマンを無理矢理口にさせられた子供みたいな顔をして「書痴が二人 …」とつぶやいた。


はい、本が好きですよ僕は。読むのも好きだけど対象としての本も好きだ。本屋さんや図 書館のようにずらりと棚に本が並んでいるのを見るとわくわくしてしまう。特に図書館。本 のために本がある場所。死ぬなら図書館がいい。アッシュ・リンクスの様に。ただし読み たい本は全部読み終わってから。
「図書館で死ぬってどういう状況?」
桧葉さんが憐れみを込めて聞いてくる。その気になれば砂漠でもヒマラヤでも南極でも行 けるのに、金さえあれば宇宙にも行ける時代なのに、何でよりによって図書館なのさ?
「例えばですね」
桧葉さんは、うんうん、と相槌を打ってくれた。
「未発掘の大図書館が発見されてですね」
そこには桧葉さんは何の合の手も入れてくれなかった。
「そこに探索に入っていろいろな貴重な本を発見するんです、品切れになったままの本や 絶版本、限定本、エトセトラ。そういった本たちを読み進むんですよ、文字通り」
「そんな本、古書屋か黒川さんの同類に売ったら金になるんだろうなあ」
「そしてですね、ついに図書館の最深部にてこの世で最高の本を発見するんですよ。それ を読み終えてそのまま図書館遭難して伝説へと」
「…マロリーみたいに?」
「そう、マロリーみたいに」
僕は力をこめてうなずき、桧葉さんは素っ気無く、へえ、と薄笑いした。それから口を開 いた。
「そんなのよりかもっと現実的にありそうなのは」
「はいはい」
「銀行強盗かなんかして警察に追われて図書館に立てこもってそこで討ち死にとかじゃな いですか?」
「強行突入のとき本が荒らされたらどうしてくれるんですか!」
「立てこもるのは黒川さんだってば」
「僕はそんなことしません。第一、強盗するなら図書館強盗します」
「あ、なるほど」
桧葉さんは非常に納得がいったようで軽く何度もうなずいた。愛想が尽きたようにも見え たけれど。
「ここには強盗に入らないでね」
後ろで仕事しながら僕らの会話を聞いていたナオエさんが、本気で心配そうに言った。


翌日も放課後に図書棟に行くと、ナオエさんが途切れ途切れのリズムでキーを打っていた。
やっぱりナオエさんの手とキーボードの間には親和性が見られない。本のぺージをめくった り背表紙にラペルを貼ったりするときの手つきは、とてもしっくりしているのだけれど。
あと眼鏡のネジを締めるときにも。
僕が入ってくるとナオエさんは僕に席を譲り、カウンターに座って眼鏡を外した。僕は結 構キーを打つのが好きだし得意なほうだと思う。だからキーを打ちながらナオエさんが眼鏡のネジを締める手つきと、その時のナオエさんの細めた眼差しを盗み見することができる。
「昨日はどうもでした」
永井さんがやってきてハードカバーの本を鞄から取り出した。
『冗談』
「こんにちは。いらっしゃい」
ナオエさんは眼鏡を外したまま本を取ると、裏表紙のバーコードを読み取りに掛けた。期 日を過ぎていることを示す、ビ、という濁音が鳴った。
「今度から気をつけるっす」
永井さんが言うとナオエさんは、そんなに気にしなくてもいいですよ、と答えた。
「半年借りっぱなしの本もありますし、帰ってこない本だってあります。一日二日ぐらい だったら大丈夫ですよ。――もっとも守って頂けるに越したことはありませんけど」
永井さんは畏まって「申し訳ないっす」と頭を下げた。
「いえ、本当に気にしないでください」
ナオエさんはあわてて椅子から腰を上げ、永井さんの顔をのぞき込んだ。
あ。
その瞬間、見てない振りして様子を伺っていた僕は、永井さんの瞳が不意討ちを食らった ように色を変えるのを見つけてしまい、さらに悪いことに、僕が見つけた瞬間も永井さんに見つかってしまった。
互いの間で気まずさが超音速で往復する。
永井さんはカウンターに置かれていたナオエさんの眼鏡を何気なく取り上げて、自分に掛 けてみた。
「ありゃ?そんなに度は強くないんっすね」
左目を閉じて右目を細めて首を傾げて、レンズ越しに目の前のナオエさんに焦点を合わせ ながら永井さんが言った。自然な仕草で、しかもかっこいい。
「はあ」
ナオエさんはぼんやり答えた。
「眼鏡じゃなくてコンタクトにしたらどうっすか?」
「どうして?」
「眼鏡外すと何かイイカンジっすよ、ナオエさん」
「そうですか?でも」
「眼鏡のほうが似合ってます」
脇から口を挟むと、二人ともこっちを見た。僕はディスプレイを見つめたまま視線を感じ た。
「こう言う意見もあるので」ナオエさんが永井さんに言った。「とりあえず眼鏡、返して ほしいんですけど」
永井さんは黙って眼鏡を外すとしばらくそれを眺め、自分の手でナオエさんに掛け直した、 ナオエさんは少し驚いたようだけど眼鏡の位置を微調整しながら「御親切にどうも」とにっこり笑った。
「どういたしまして」
永井さんもにっこり笑って言った。

「やっぱり黒川ってナオエさんのこと好きだったんだ」
「やっぱりって?」
「何かちらちら見てるときがあるし」
永井さんの言葉に僕は凍りついた。彼女はあわてて付け足した。
「いや、そう言えばね、って程度、あたしやあの一年の子くらいしか気付いてないと思う、 たぶん」
「桧葉さん?」
そう、桧葉さんって子、と永井さんはうなずいた。桧葉さんもかなあ、とぼやくと永井さ んに「そこまでまわりが迂閥だと思うのは図々しいね」と叱られた。
――じゃあ途中まで一緒帰ろう、黒川。
永井さんがそう言ったのだ。
遠慮しときます、と言う前にナオエさんが「じゃあ今日は御苦労様でした」と笑って言っ てくれました。

「…はい、じゃあお先に失礼します」
そう言うしかないじゃないですか。永井さんには何か覚られてるし。
案の定校舎を出たとこで、「やっぱり黒川って…」と言われてしまった。
「ナオエさんさ」
「はい」
「眼鏡外すとヨロシイよね」
「眼鏡しててもヨロシイよ」
「何で眼鏡にこだわんの?」
「内緒」
「言えよお。黒川あ」
言えません。眼鏡のネジを締めるときの指や眼差しがきれいだから、とかなんて。
「じゃあさ、ナオエさんのどこが好きなん?」
「いろいろ」
だから口には出せないってば。
彼女は舌打ちして、けち、と言った。

六時間目の数学は先生がお休みだそうで、自習プリントが配られた。なので僕は図書棟に 行ってそこで片づけることにする。
「おや?」
桧葉さんがいた。僕をみとめると桧葉さんは、人差指と中指を伸ばして、短く敬礼してく れた。似合っててかっこいい。何か女の子がかっこいいと幸せだ。
「自習?」
桧葉さんに聞くと、彼女は首を振った。
「体育」
「桧葉さん体育きらいなんだ?」
んー、どうかな、と桧葉さんは首を傾げた。
「嫌いじゃないと思う、むしろ好きなほうかな。嫌いなのは不条理な体育教師。体育教師 じゃなくても不条理なこと命令する人問は嫌いだけど」
ふむ。
僕がうなずくと彼女は「と言うか命令されるのじたい、嫌」と顔をしかめた。
「そりゃそうだね」
「うん」
桧葉さんはうなずいて読み掛けの本に戻った。僕は桧葉さんの斜め前の椅子に座ってプリ ントを広げる。数学は好き。少なくとも、数学自体は不条理じゃないし。
「おやー」
準備室からナオエさんが顔を出した。
「お二人ともお揃いでしたか」
それだけ言ってそのまま引っ込む。やっぱりナオエさんは眼鏡を掛けてなくては。
桧葉さんは黙って本を読む。僕は黙ってざら紙のプリントにシャーペンで式をつらねてい く。図書室には二人だけ。隣の準備室でナオエさんが本の表紙にフィルムを貼る音以外何もしない。静かだ。
ガチャ!と遠慮も礼儀もなく大きな音で図書室のドアが開いた。ジャージ姿のおばさん。
図書室にジャージ姿のおばさん。もはや体育教師しかありえない。桧葉さんが「あーあ」と小さく溜め息を吐くのが聞こえた。
「桧葉!」
いきなり呼び捨てかよ、と桧葉さんが小さくつぶやく。
「何してる、来なさい。それからアンタ」
いきなりアンタ呼ぱわりですか。
「アンタもさぼり?」
「自習です」
「教室でやりなさい。ほら、桧葉!」
「調子が悪いので今日の体育は休みます」
右手を上げて桧葉さんが臆面なく言ってのける。言ってしまう。僕は体育教師の爆発を予 期して肩をすくめた。
「あのう、何でしょうか?」
体育教師が気色ばんで怒鳴ろうとしたところでナオエさんが準備室から出てきた。黒い 細身のズボンに白いワイシャツ。コーヒー屋さんの店員さんみたいだ。青いデニム地のエプロンを除けば。
体育教師はナオエさんのほうに向き直った。
「尚柄先生」
「あのう…」
「いるんならどうして」
「私は…」
「この子らに授業に出るように言わないんですか?!」
「…『先生』じゃありませんけど」
何董言われているのか分からず怪読な顔をした体育教師に、ナオエさんが説明した。
「あのですね、私は学校司書でして、学校図書館司書教諭ではありませんので…」
体育教師はまだ理解していない。
「ええっと、ですから私は司書でして、教職にはついておりません」
体育教師は言葉に詰まって口をもごもごさせ、再び息を吸ってお叱りの再出発をしようと したところでナオエさんに遮られた。
「あと、図書室では出来るだけ静かにしてください」
注意すると言うよりお願いするようにナオエさんが頼んだ。申し訳なさそうに。
「あのですね、尚柄先生、じゃなくて尚柄…さん」
「はい」
返事は明るく閥達に。
の、見本のような返事に体育教師は次の文句に躓いた。ナオエさんは相手の顔を真っ直ぐ 見て、控え目だけれど明るい顔で微笑んでいる。決して皮肉やからかいでそうしているわけでないのが、ナオエさんの危ないところだと思う。鈍いんでしょうか?
「とにかく尚柄さん。例え教職員でなくてもさぼってる生徒を見つけたら注意してくださ い」
「え、どうして?」
真顔で聞き返されて、体育教師は苛々と答えた。
「それが子供に対する大人の良識です」
「すみません、私、あんまり良識ある大人じゃなくってですね、あの、本ばっかり読んで たからこんなになっちゃったって、よく親にも言われてまして、就職試験の時も『自分の信念について述べてみなさい』って言われて思わず」
「もういいです」
体育教師は一生懸命言い訳しているナオエさんを冷淡に遮った、何と言うことだ。折角ナ オエさんの学生時代秘話が聞けるところだったのに。
さて、そうするといよいよこちらに矛先が来るな、と思い、僕は桧葉さんの手をつかんで 出ロヘエスコートした。
「どこ行くの!」
後ろから鋭い怒気が飛ぶ。
「教室に戻るんですけど?」
出来るだけ素っとぼけて言ってみせよう。それから二弾目が飛んでくる前に素早くドアを 開け、その後ろに滑り込む。ドアの後ろから追ってくる足音に、僕らは早足で渡り廊下を逸れ、秘密の通路を擦り抜けた。
図書棟は元々木造の旧校舎の一部で、使われなくなった教室がいくつもある。溜まり場に なったりしないように鍵が掛けてあるけど、いくつかは鍵ごと外れるのだ。足音が見当違い の方向へ遠退くのを聞き届けて、僕と桧葉さんはその一つに入った。古い木の匂い。
「教室に戻るんじゃなかったの?」
桧葉さんは全部木で出来た、古い、けれど作りはがっしりした机の上に座る。僕は隣の席の椅子を引いて座った。
「教室ですよね。ここも」
「そう言うのナントカカントカって言うんじゃない?」
「牽強付会」
「そ、そ、何で分かった?」
「勘です」
ふうん、と首を傾げて桧葉さんは右足を前の席の椅子に乗せ、右膝をさする。
「痛いんですか?」
冷たい目がにらむ。
「調子が悪いって言ったの聞こえなかった?」
「ごめんなさい」
ま、いいけど、と桧葉さんはつぶやいた。
「まだ痛いんだよね。低気圧だと」
「よく聞くけど、本当に低気圧が来ると古傷が痛む人っているんですね」
木のサッシにはまったガラスを通して窓の空を見上げた。なるほど暗い雨雲だ。
「痛いって言ってんのにあの先生、人の話聞きゃしないし」
さすっていた手を膝の上にじっと当て、桧葉さんはそこをにらんだ。まあまあ、とか言っ たら殴られそうだ、黙っていよう。
「あーあ。また後で愚痴々々言われるんだろうね。なんて言い訳しよ」
「本当のこと言ったらどうです?」
「『本当に膝が痛かったんですー。信じてくださいー』って?」
桧葉さんの自嘲。そんなのあまり見たくないので言う。
「『さぼってた先輩に旧校舎に無理矢理引っ張て行かれました』って言うのは?」
ふうん、と桧葉さんはうなずいた。いつもの、少し冷めているけどしたたかな笑顔。やは り僕はそんなのが好きだ。
「よし、それで行こう」
…それで行くんですか。

永井さんがやってきて、カウンターでナオエさんと話している。その奥で僕はキーを叩き ながら聞き耳を立てている。桧葉さんは準備室でお茶を飲みながら文庫本を読んでいる。僕とナオエさんが叱ると、桧葉さんは本の背表紙を見せた。整理ラベルが貼ってない。
「自前の本だからいいでしょ」
僕とナオエさんは仕方なく口を閉じた。でも、どうして他人様の本なのに釈然としないの でしようか?
いつもの放課後。
永井さんとナオエさんの話題は今度、詩碩刊行出版から出る現代東欧文学選集についてら しい。
「入架してよーナオエさんー」
「そう言うことは入架要望書に書いて提出してください」
「書けば入るんっすか?」
「うーん。ほかにもリクエストがあれば購入できるかもですね。でもお一人の希望ではち ょっと難しいかな、高いですし」
「お願いっすよナオエさん、自分で買うお金なんかないよー」
実は僕も読みたい。だけど永井さんを喜ばせるのは、今はちょっと嫌だ。もうちょっとナ オエさんと離れて話してくれれば。
不意に永井さんがナオエさんの耳元に口を寄せて何かしゃべった。それから二人でひそひ そと内緒話を始めた。
気になってしょうがない。僕はちらちら二人のほうをうかがう。二人はくすくす笑ってい る。余計に気になる。と言うより少し苛々してきた。焦れてキーを打つのもおろそかに、二人のほうに何度も目を遣る。
いっせーのーせっ!と誰かがタクトを振ったように、呼吸を合わせて二人が突然こっちを 振り向いた。
目が合ってしまった。
僕はとっさに目を逸らしてしまう。まずった。そのまま素知らぬ振りして「何ですか?」 とでも言えば良かったのに。
「じゃあね、ナオエさん。入架考えといてよ」
「はい、じゃあ気をつけてお帰りください」
背後を永井さんが帰って行く。僕は振り向けもしない。ナオエさんは永井さんをカウンタ ーから見送ると立ち上がってこっちへやって来た。
「どうです?」
ディスプレイをのぞき込む、僕は「別に」と答えにもならない答えを返す。
右の耳たぶを軽く触れられた。
もう少しで叫んでいたかも知れない。
「…何?」
かすれ声を絞り出した。
「これじゃ熱いときに触ったらかえって火傷しそうですね」
耳元でささやいてナオエさんは笑う。耳が真っ赤になっているのをからかわれているのだ と分かったのはしばらくしてからだった。
「何話してたんですか、永井さんと?」
おそるおそる振り返ってナオエさんに聞いてみる。耳だけじゃなくて、きっと顔中が火照 っているに違いない。ナオエさんは楽しそうに笑っていた。
「眼鏡を変えたらどうかって言われたんです」
「どうして?」
「黒川さんが仕事に集中できないから、ですって」
「それで変えるんですか、眼鏡?」
震える声で尋ねた。ナオエさんは「いいえ」とささやいた。
「そんなのとっくに知ってます、って答えておきました」
「え?…え、え!」
仰ぎ見たナオエさんは精一杯、似合わない意地悪な笑顔を作ってみせてる。
「知っててとぼけてたんですか?根性最悪!」
下からにらみ上げた。ナオエさんは微笑ましいものを見守るように、僕の頭に手をのせた。
「言葉にしないで察してもらおうなんて、ちょっと甘いですよ」
そしていつもの温和な顔でにっこり笑った。それから準備室のドアを開いて中に入る。そ こでは桧葉さんがかったるそうに本でも読んでいるだろう。ドアの隙間から、やはり桧葉さんが頬杖をついてぺージをめくっているのが見える。
と、彼女がこっちに気付いた。そして全てを気付いているのか、可笑しくてたまらない物 を見るように僕を見て吹き出し、ベロを出して左目を閉じてウィンクしてみせた。