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天に向かって立ち昇る夏雲は雪を頂く高峰のようだった。 目映い青に染まった空にそびえるそれら積乱雲は、真っ白に翳りが無くて通り雨の一つも降らせてくれそうになく、真夏の太陽の陽射しに輝いていた。 グラウンドの少年たちは体中から振り絞るように汗を額に頬に胸に背中に流しながら走り続ける。ようやく鳴った休憩の笛は、あまりに高く澄みきっていた青空に抜けたせいで、どこか遠くで吹かれたように現実感が無かった。 笛と同時に少年たちは、絞れば滴るほど汗に濡れたシャツを脱ぎつつラインの外に並べられたボトルに向かった。脱いだシャツを肩に掛け、裸の上半身を太陽に晒し、少年たちは焼付くほど渇いた喉にボトルの水分を音を鳴らして流し込んでは一息吐くとまたボトルに口をつける。そして、あっという間に空になったボトルを片手に少年たちは蛇口の並ぶ方へと、太陽の下、濃い影に目を伏せながら一息吐くごとにまた汗を溢れ流して歩いていった。 少年たちは蛇口をひねると、勢いよく水道水を迸らせた。鉛管を通ってきた冷たい、かすかに塩素のにおう新鮮な水を頭から被り、汗と塩に塗れた顔を洗って、次いで汗に濡れたシャツをすすぐ。たっぷりと新鮮な水道水を含ませると、高いスポーツシャツだろうとお構い無しに思いっきり絞り上げ、陽の当たるフェンスやゴールポストに干すのだ。この灼くような真夏の陽射しなら、きっとすぐに乾かしてくれるだろう。 絞ったばかりのまだ冷たいシャツを肩に掛けた翼は、蛇口に並ぶ少年たちの中に多紀をみとめ、その右の肩胛骨に自分が気まぐれにつけたキスマークに気付いて狼狽した。 何やってんだ、と翼は多紀の無防備に、そして自分の軽率に苛立ったが幸い、その微かな印に他の少年たちは誰も気付いていないらしかった。 安堵して一人、日陰に腰を下ろし休む翼の傍へ少年が一人やってきて、何も言わず無遠慮に隣に腰を下ろした。「アカン、めっちゃ暑いわ。サッカーって夏のスポーツや無いやろ」 翼は隣に座る少年の方を一瞥しただけで、何も応じなかった。 「なんか言うてやってや、姫さん。寂しいやん」と、去年まで長く伸ばしていた金髪をばっさりと短く切った少年は、翼に甘えるように呼びかけた。 「いい加減その呼び方、止めないと殺すよ」 替えのシャツを着た翼と違い、裸の上半身を晒す茂樹は、怖っ、と怯えて見せた。「姫さんが言うと洒落に聞こえんわ」 「洒落じゃねえよ」 ええやん、と茂樹は緩く笑った。南風が吹いてその金色の長髪を少し揺らす。「姫さんは姫さんでええやん……風、気持ちええな」 翼は、目蓋を閉じて汗を乾かす熱い風に吹かれる茂樹を見て、目をそらして面倒に言った。「何の用だよ?」 「なんや冷たいな。たまには姫さんと仲良うしてもいいやん。俺、姫さんのこと好きやしなあ」 ……何気ない一言がこんなにも感情をかき乱すのは何故だろう? 戯れに過ぎない半句が胸を抉るのは何故だろう? 翼は心中をおくびにも出さず目も合わさず少しだけ嘲笑しただけだったが、許されるなら、自分のプライドが許すなら、渾身にこぶしを握り、茂樹を殴りつけたかった。 翼の衝動を知ることもない茂樹は呑気に話し掛け続けた。「姫さん、最近、どない?」 「現在、最悪。隣のチャラい金髪がどっか行ってくんねえかな」 つれないなあ、と茂樹はあくまで軽薄に笑うと地面に寝そべった。「俺、何か姫さんに嫌われるようなことした?」 どこまでも。 どこまでも飄々として、適当なあたりさわり無い言葉を並べ、そして本音なんて絶対に見せない。女相手にリップサービスする程度の軽薄さで自分に話し掛ける。 いっそこいつが死んでくれれば俺は楽なのにな、と翼は物騒なことを考えながら立ち上がりかけた。 「どこ行くん、姫さん?」 俺の勝手だろ、と言い捨てて立ち去ろうとする翼の腕を、茂樹は起き上がって掴んだ。「何、苛々してんねや、姫さん。まったり行こや」 翼がその手を剥がそうとすると、ポツリと茂樹は言った。「フィールドの外まで本気出すの、シンドイやろ?」 しばらく黙ったあと、そうだよな、と翼は上げかけた腰を下ろし、風の吹いてくる方向へ顔を向け、呟いた。そんなに本気出してちゃシンドイよな。 視線の先に、一人で日陰に休む多紀が見えた。 そうさ、アイツだってそうだったんだろ。 「だからってあんまりオイタしちゃいかんで、姫さん」 目も合わさないまま、不意に茂樹が言った。 「何のことだよ?」 「タッキーの背中のアレ付けたん、姫さんやろ?」 向こうの山から蝉の声が聞こえていたのに、翼は気付いた。夏だもんな、と翼は蝉の声を遠くに聞きながら思い、ひとしずく額からつたう汗を袖で拭った。 「……だから何のことだよ?」 誤魔化す気も無かったし隠すつもりも無かった。ただ、茂樹に一々報告する必要がないだけのこと。 バレバレやん、と茂樹がせせら笑う。「後ろから見とったら姫さん、めっちゃ狼狽えとったんがよう見えたで。姫さん、感情殺すん下手やからなあ」 うるせえよ、と翼は小さく吐き捨てた。「お前にはカンケーねえだろ」 せやな、と茂樹は笑って青天を仰いだ。「俺にはカンケーあらへんなあ」 やはり蝉の声が遠くから聞こえ続けていてそれ以上、翼も茂樹も何も言わなかった。 休憩の終りを告げる笛が鳴った。やはり、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。翼はボトルにもう一度口をつけてスポーツドリンクを飲み、立ち上がった。茂樹も、やれやれ、もう休み終わりかいな、とこぼしながらあとに続いた。 柾輝は翼の前を素通りした。 オイ、と翼は呼び止めた。「一緒に帰ろうぜ」 その一瞬、柾輝が翼に向けた眼差しは軽蔑だったろうか、それとも貶みなのか、翼にはわからなかったがどっちでも構わなかった。どうせ“あの前”には戻れない。 もう一度翼が、一緒に帰ろうぜ、と繰り返すと柾輝は、ああ、といつもと変わらない顔で応じた。翼はそれがわかっていた。柾輝は踏み込まない。踏み込んでこない。他人の深部に関わってこないし、それが黒川柾輝の流儀だと言うことを、翼はよく知っていた。 ――だからコイツを選んだ。 翼は知っていることを知っていた。知っているから、知っていて利用しているのだと言うことも知っていた。罪悪感は、無い。お互い様さ、と翼は思っている。お互い踏み込まない、お互い心まで干渉しない。それが前提でつるんでるんだよ。それは柾輝だって分かってる。 許されてる場所。 長続きしないことはわかっているけど。 「なあ、姫さん」 だからここに入ってくんじゃねえよ、と翼は声を掛けてきた茂樹へ胸のうちで呟いた。ほっとけよ。 「聞こえとる、姫さん?」 「聞こえてるよ」と、目も向けずに応えた翼に、ならええ、と茂樹は笑ってから続けた。 「ちょっとガングロ貸してもらってええか?」 今度は翼も茂樹のほうを見た。「柾輝に何の用だよ?」 「俺の勝手ちゃうん?」 「じゃあ最初っから俺に断り入れる必要ねえだろ」 せやな、と茂樹は柾輝の方に向き直った。「ちょっとツラ貸してもらえんか、ガングロ?」 「他人に勝手にあだ名つけるなよ」と柾輝は苦笑して、翼のほうを見た。「翼、悪い。今日は付き合えねえっぽいわ」 気にすんな、と翼は手を振って柾輝と茂樹、二人をあとに一人で歩いた。もう夕方と言っていい時間だったが夏の長い日はまだ沈まずに西で赤く焼けて頭上の空を透明に澄まし、蝉は地鳴りのような音で鳴き続けていた。暑い、と翼は一人で呟き振り返ることもしなかった。 帰りの駅で声を掛けられた。 「よう、杉原」 にこやかに笑いかける英士が何故この駅にいるのか、多紀には直感で分かったが、それを言葉にして訊くことを英士が望んでいることも、分かっていた。 「なんで郭くんがいるの? この路線じゃなかったよね?」 「ちょっと杉原に用があってね」と、変わらず口元に笑みを浮かべたまま、英士は答えた。「時間あるか?」 少しなら、と多紀が答えると英士は、じゃあちょっとここ出てお茶でも飲まないか、と笑みを絶やすことなく誘った。 『うん、いいよ』以外の答えが可能だとは多紀には思えなかったし、それ以外を英士が許容することも無いことも分かっていた。けれどそう口にするには数秒の時間が必要だった。 「……うん、いいよ」 ようやく多紀が答えると英士は穏やかに微笑んで、悪いな、とだけ言い一人で駅の出口へと歩き始めた。彼についていく以外の選択が可能だとは多紀には思えなかったし、それ以外を彼が許容することも無いと分かっていた。だから、そうした。英士はついてくる多紀を振り返ることもせず駅を出ると、そのまま横断歩道を渡り町並みを歩いていった。多紀はそのあとに従ってどこへ行くかも分からず歩き続けた。 5分も掛からず人気の無い路地裏にたどり着いた。 「この辺、喫茶店とかありそうに無いんだけど」 足を止めた英士に声を掛けたが、多紀は英士が最初から喫茶店へもファーストフード店へも向かうつもりなどないことは分かっていた。声を掛けたのは、ただ単にもうウンザリしたからに過ぎない。駅から初めて英士は多紀のほうを振り返った。その顔にもう、笑みは無かった。 「ねえ」と、英士は切り出した。「ねえ、背中のあの印、何?」 「印?」と多紀は首をかしげた。「何それ?」 「とぼけるなよ」 そう言う英士の声は低く重く、真夏の暮れ時にも拘らず冷たかった。 ――印? 何の? と多紀は自問して、ようやく昨夜の翼との行為に思い当たった。あの時、背中に口付けられた気がする…… 「さあ?」と、今度は本気で多紀はとぼけた。「郭くんが何の事言ってるのか、分からないんだけど」 「誰につけられた?」 英士は多紀に応えず質問だけを叩き付けた。 「だから何のことか分からないってば」 「答えろよ、杉原。背中のキスマーク、誰につけられた?」 「何のことか分からないってば」 「誰と寝たかって訊いてるんだよ」 一歩、英士が多紀に迫ると二人の距離は息が掛かるほどだった。 「分からないって、言ってる」 多紀があくまでそう言うと、英士はゆっくり右手を上げて多紀の胸に当て、そのまま多紀の襟首を掴んだ。 「答えろ、杉原」 決して大きくは無いが、突き刺さるように鋭く英士は多紀を質した。 「何するかな、郭くん。痛いでしょ」襟首を掴み上げる手を払い、英士の目を真っ直ぐ見て言った。 「訊いてないよ、誰もそんなこと」英士の声はどこまでも冷たかった。「それより質問に答えてよ、杉原」 多紀はただ英士の目を見て、沈黙で応えた。 「ふーん」英士は多紀を見下ろした。「言えないような相手と言えないようなコトをしたのか?」 多紀は目を伏せて呟いた。小さな呟きだったので、英士の耳には届かなかった。 「何? 言いたいことがあったらはっきり言ってよ、杉原」 「郭には関係ないって言ったんだよ!」 多紀のその声は、大きくはなかったが刺し違えるような切迫がこもっていた。それに気圧されず、英士は怒りをはらんだ沈黙を数秒、続けた。それから、へえ、と。 「へえ。俺には関係ないのか」 「あるわけないよ。君には関係ない――君にだけは関係ない!」 多紀の言葉に英士は知らずこぶしを作り、それを固く握り締めた。そのまま二人はしばらく睨み合ったが、先に動いたのは英士だった。こぶしをほどくと息を一つつき、視線を多紀から外して、そうか、と言った。 「……悪かったな、こっちの用事につき合わせて。今度は本当にお茶でも飲もう」 豹変して英士は穏やかにそう言うと、踵を返して表通りへ一人、歩き始めた。多紀は体を固くしたまま動かなかったが、英士の姿が視界から消えると肩を下ろし、後ろの壁にもたれかかって爪先を眺めた。そして目を閉じた。 ここでええやろ? と茂樹が選んだハンバーガー店に入ると二人は向かい合って座った。 「珍しいね、アンタが俺に用があるって」 「ま、ここやったらチリドッグやな」 「で、用ってなんだよ?」 「ガングロ君は何食べよるん?」 「何にも食べねえよ、コーヒーだけだよ。それより用があるならさっさと済ませたいだけどな」 「ガングロ君、小食なんか?」 「他人の話を聞けよ。あと勝手にあだ名つけた挙句それに君までつけてんじゃねえよ」 ガングロ君はせっかちであかんわ、と茂樹はぼやいて見せると唐突に切り出した。「自分、平気なん?」 「何がだよ?」と柾輝は聞き返した。 茂樹は何でもないように答えた。「姫さんのコト」 「翼がどうかしたって?」 「なんや?」と茂樹は意外な振りで言った。「自分、知らんかってん?」 「だから何をだよ?」 柾輝の質問に答えず茂樹はチリドッグを食べてコーラを飲み、一息置いてから言った。「分からんのやったら、別にええ」 知るかよ、と言って柾輝はコーヒーをすすった。そのままお互い、黙って窓の外を眺めていた。 「おい」と沈黙を破ったのは、柾輝の方だった。「アンタ、知ってんのか?」 「んー。何をや?」茂樹は窓の外へ向いたまま、すっとぼけた。 「知ってんのか?」 二度目は強い柾輝の口調に、茂樹は窓の外を見たまま答えた。「知っとる」 「誰から聞いた?」 「姫さん」 嘘つけよ、と言いかけて柾輝は口を閉じた。そういうのもあるのか?……いや、あのプライドの高い翼がそういう手段をとるわけねえ……「嘘つけよ」 「ああ、嘘や」 「さっきからアンタ、何が言いてえんだよ」 「最初っから言うとるやんか」ようやく茂樹は向き直った。「自分は平気なんか? ってな」 「何で俺が出てくんだよ?」 その言葉に、茂樹は黙って柾輝を見返してから口を開いた。「分からんのやったら、別にええ」 柾輝は残りのコーヒーを飲み干すと音を立ててカップをソーサーに戻した。「用ってのがそれだってんなら、帰らせてもらうぜ」 「すまんかったな、暇取らせて」 「別に。じゃあな」 「さいなら」 あっさりと自分を解放した茂樹に少し戸惑いながらも、柾輝は席を立った。荷物を肩に背負いテーブルから離れようとしたところで、また頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めている茂樹を見ると、不意に言葉が出た。「アンタの方は平気なのか?」 「あんま平気や、あらへん」 こちらを見ることなく窓の方を向いたままそう言った茂樹に、柾輝は動きを止め、何か言おうとした。 しかし何も言わず、一瞬だけ止めた足をまた歩かせて、店を出た。 自分は野暮が嫌いだったことを思い出したのだ。 |